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わたしのなかで かみが しんだひ (後編)
礎を失ってなお立ち続けることが、こんなに苦しいとは。
次第に陰の濃さを増す葉隠れに身を潜めながら、ユウナは黄昏に染まる梢を見上げた。
マカラーニャの森に、夕闇が迫っていた。
召喚士は、スピラの希望。それだけに、民を失望させた瞬間から、世界を回す歯車は巨大な牙と化して召喚士を噛み潰そうとする。まして寺院に背く反逆者となればなおさらのことだった。
謂れなき罪の烙印を押され、逃避行の末に森へ逃げ込んだ召喚士ユウナにとって、今一番恐ろしいもの。それは行く手を阻む魔物でも、往く者をしばしば惑わせる枝々の迷宮でもない。寺院から放たれ迫り来る、追手の足音だった。
闘うわけにはいかない。争えば必ず傷つけあうことになる。誰よりも人の悲しみに敏感な彼女にとって、それは想像するだけで耐え難い苦痛だった。
追っ手となって現れる僧や兵士の大半は、何も知らされず与えられた命令に従っているだけ。ただ純粋にエボンを信じ、教えを説く老師の言葉に従って日々を生きる素朴な人々に過ぎない。
すなわち真実と正義が何処にあるのかとは別の次元で、ユウナと彼女を守るガード達は、一方的に追われる道を選ぶより他になかったのだ。
人々は、いつまた襲って来るか分からない巨大な影に脅えながら、教えによってもたらされる希望にすがるしか無い。シンによって親を失えば、身寄りのない子等は寺院を頼らざるを得ない。
これがスピラの、現実。
僧見習いの幼い兄弟がユウナに向けた瞳は、信じたものに裏切られた悲しみと怒りで燃えるようだった。
誤解を解いて、子らの傷ついた心を癒してやりたかった。できなければせめて、痩せた身体を抱き、温めてやりたかった。
だが、今の彼女にはそれすらも許されない。
世界の苦しみ悲しみを消すために、頑張って来たはずなのに、スピラを思う気持ちは今も彼らと同じはずなのに、道は分かたれてしまった。
彼女の心模様をそのまま写し取ったように、結晶の森に覆われた小道は曲がりくねって、黒々と横たわる闇の先に続いていた。
不変を望む世界の予定調和を単純に信じ、目をつぶり何も考えず従っていたら、いっそ楽だった。
けれども真実に対して目隠しをされたまま進んでいた事への恐ろしさに改めて思い至り、彼女は我知らず自分の両肩を抱いた。永遠に続く破滅の螺旋は、生きながら殺され続けるのと同じこと。
それを知った今、もう戻れない。「希望」と同じ意味を持っていたはずの「教え」は、スピラに何の解決ももたらさない。自身が犠牲になりさえすれば、全てが上手くいくのだと考えていた自分は、何と愚かだったのか。
「…ウナ、ユウナ!」
ティーダの声がした。世界が急に音を取り戻し、ユウナは我に返った。剣を携えたままの彼が、心配げに見つめていた。
覗きこむ瞳は青く澄み、それでいて温かかった。今は遠い故郷ビサイドの海に抱かれる時の、穏やかな心地良さに似ている。
「寒いのか?」
気がつけば、確かに夕暮れを渡る風は身震いするほど冷たかった。マカラーニャ寺院で眠る祈り子の凍気が、森を抜ける風に寒冷さを含ませているのだろう。
「うん、ちょっと」
ごく素直に、そう口にしていた。理想の召喚士像と自らとの距離を常に測り、近づくよう努めて振舞っていた以前ならば、心配をかけまいと平気を装ったかもしれない。
けれどもティーダの前で”召喚士ユウナ”を演じる必要はない。
ユウナという人間の、ありのまま。それでいいと、彼は言ってくれたから。
ユウナがビサイド寺院に入り、従招として修行を始めた頃から、別れに備えて見えない境界線が幾重にも引かれていった。時を同じくして、彼女もまた自らを強く保つために心を囲うようになった。誰もが、本人でさえも、民の希望を一身に背負う身なのだから当然だと信じてきた。
けれども海から来た不思議な少年は、いとも簡単に線の内側へ飛び込んで、素の彼女に触れた。
まるで太陽が、柔らかで傷付きやすい薔薇の蕾をほころばす様を見るようだった。
ガードでなくてもいい。傍にいて欲しい。ごくありふれたささやかな望みは、大儀のために自己を抑制し民への献身のみを志すという、召喚士のあるべき姿を逸脱していたかもしれない。けれども密かに抱いた恋とも呼べない淡い気持ちは、大切に育まれて強く健やかに生長し、今の彼女自身を支えている。
そればかりか自分が何気なく口にした、独りよがりな一言を、あんなに大事にしてくれていた。その事実に触れたとき、またひとつ、ユウナの中で何かが芽吹いた。
───召喚士でなくても、ユウナは、ユウナだ。
ティーダのくれた言葉を、胸の中で繰り返す。見失いかけていた自分自身を、彼は、紛うことなく指し示してくれた。
温かな想いがひたひたと満ち、胸を潤していく。
ティーダが、それとなく立ち位置を変えた。森の中を吹き抜けてくる北よりの風を自らの背で遮ってくれている。彼の優しさが、ユウナを内側からも温めた。
「疲れたろ。もう少ししたら、安全な場所で休めるから」
そう励ます彼の表情にも、疲労の色が透けて見える。彼女は精一杯の微笑みを頬に浮かべた。
「うん、頑張ろう」
半ば無意識に出た少女の一言に、ガードの少年は僅かに睫毛を伏せた。
「そうだな」
───ユウナはもう十分頑張っているのに、試練はいつ果てるというのか。いっそのこと、旅などやめてしまえば───
想いを飲み込んで、彼は笑い返した。ほんの少しだけ寂しさを含んだ微笑の意味をユウナが悟るのは、もう少しだけ先のことになった。
しんと冷えた宵の風が、衣の袖を揺らし通り過ぎていく。森はいつしか闇に沈みかけていた。
いつか分かってもらえる日が来るだろうか。召喚士の問いかけに、
「もちろんッスよ。すぐにみんな気付くって」
ガードは勢い込んで請合った。
「チビ達だって、今度あいつらに会う頃には、誤解も全部解けてると思う。そのときには、絶対謝らせてやるからな!」
彼が鼻の頭にしわを寄せて人の悪い笑顔を作って見せると、ユウナは口許を手で覆って小さく吹き出した。
「子ども相手に…、キミ、意外と大人気ないね」
彼女の笑い声を聞くのは、酷く久しぶりのように感じる。緊張からくる全身の強張りに今更ながら気付いて、少年は首を左右に傾けた。
「だってさ!腹立つだろ。何も悪いことしてないのに追い回されるし、なじられるし、サイテーだ」
何よりサイテーで腹が立つのは、糾弾という名の刃からもユウナを守れなかったことだ。でも…。
空を仰ぐように深呼吸したあと、彼は言い切った。
「けど、誰が何と言ったって、オレ達は間違ってない。そうだろ?」
はにかみがちに白い歯を覗かせた笑顔に、真っ直ぐな確信に、ユウナは心から頷いた。
ガードの皆、そして目の前で笑う少年が、信じ支えてくれる。それを思うだけで、背に重くわだかまる疲労までが、ほぐれていく気がした。
追手の動向を見極め、道を決したのだろう。出発を告げ、仲間を呼ぶワッカの声が聞こえた。その時だった。
他の者からは木の陰になっていることを確かめると、ティーダは素早くユウナの片手をとった。そして自分の掌で包むようにしてぎゅっと握り締めた。
彼女がはっと顔を向けた時には、グローブに包まれた大きな手は、もう風のように離れていた。今しがた起きた出来事を物語るのは、未だ静まらない胸の鼓動と、小さな掌に残る、痺れに似たぬくもりだけだった。
色違いの瞳に、歩き出した少年の広い背中が映る。旅を経て、その肩は一層逞しい。
生き延びたい。もう一度、手を繋ぎたい。
とても大切な、シンプルな事実。自らの生きる力に気付かせてくれたのは、教えでなく、神ですらなく。
いつの間にか心の中に住んでいた、眩しい人だった。
水晶の梢は宵闇を削り、彼らの行く道を幽かに照らす。
運命の一夜が訪れようとしていた。
[FIN]
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