水のエデン
小さなスピーカーから流れる作り物の歓声。わざとらしいその音を聞きながら、若者は憮然とした顔でがしがしと金色の頭髪を掻き回した。
港町の高台に建てられたメゾン最上階にある、日当たりの良い一室。開け放した窓からは、ルカの港が一望できる。この住まいはブリッツシーズン中、ビサイド・オーラカが誇るエースの宿舎として使われていた。
明日からいよいよトーナメント戦が始まる。ティーダにとって本業のブリッツに専念するため、スフィアハンターの仕事は一時休業だ。午後からの練習に備えると称して早めにルカ入りを決め込んだのは、実のところ午前中のひとときを恋人と有意義に過ごすための口実だ。もちろん、リーダーはいつものごとく活火山の噴火よろしく憤慨の雄叫びを上げた。しかし大物新人はこれまたいつものごとく、巧みな切り返しと見事なフェイクでかわして逃げおおせたのだった。
飛空挺のブリッジにサーカスの猛獣使いや闘牛とさして変わらない光景が出現するのが、最近のパターンとなりつつある。
かくして。
「毎度飽きもせず、ご苦労なことだ」
「いってらっしゃい。後はまかしといて!」
パインの苦笑とリュックの声援を背に、ティーダはユウナを連れて活気と喧騒溢れる港町へ降り立った。
そして二人のささやかな城へひとまず落ち着き、恋人達はダチに持たされた土産を開いたのだった。
それが、発端。
吹き込む海風の爽やかさとは裏腹に、彼の表情は冴えなかった。
「…勝っちゃった」
目を見張ったまま球形のスクリーンを見つめていたユウナは、視線を上げた。にんまりと笑った色違いの瞳は、得意そうにきらきら光っている。
向き合った二人の間には、二つのコントローラーを備えたブリッツボール大のスフィアが置いてある。カモメ団の天才少年、シンラがスフィア研究の片手間に作ったブリッツの対戦型シミュレーションゲーム第一号だ。出発間際のどさくさに紛れて持たされたので、もちろん二人は目にするのさえ初めてだった。まだ試作品だが、ダチはそのうちこれをスタジアムのグッズショップに売り込むつもりらしい。
そこでテストを兼ね、試しに一戦交えたところ、なんとユウナが一点差でティーダを下す結果になったという訳だ。
「うーん。所詮シミュレーションってところかな」
そういうエースの顔は、かなり口惜しげだ。ユウナは彼の負け惜しみを聞いて、くすりと笑った。たかがゲームの勝敗にムキになって悔しがっている恋人。その少し子どもっぽい表情をつい可愛く思えてしまったのだ。本人は気付いていなかったけれど、それは勝者の余裕ともいえた。
「実戦だったら負けないッス」
負け惜しみの続きとしか聞こえないことを承知で、ティーダは更に口をとがらせた。
「いいのかな?そんなこと言って」
ユウナが腰に手を当てて、つーんと胸を反らして見せた。彼女にだって、オーラカの代理として結成された即席チームながらレギュラーとして出場し、他チームと渡り合った実績がある。
「二年間でついたわたしの実力、見せてあげようか?」
悪戯心も手伝って、彼女はさらに挑発を重ねた。思いもかけない挑戦状に一瞬驚いたものの、彼はすぐに不敵な笑みを取り戻した。
「おっし、その勝負乗った!勝敗に何賭ける?」
至近距離から空色の瞳に覗き込まれて、ユウナは弾む鼓動をなだめつつ思案をめぐらした。人差し指を頬に当て、しばし考え込む。
「えーと、負けた人が勝った人のお願いをひとつ聞くっていうのはどうかな」
「了解ッス」
思いついたら果断即行。もう立ち上がりながら、ティーダは壁の時計に目を走らせた。
「練習の合間に何とか潜り込めないか、スタジアムに行ってみよう」
顔馴染みの警備員は、残念そうな顔をして首を横に振り続けた。来月のゴワーズ戦というプラチナチケット三枚でも無理となると、恐らく本当にスケジュールがいっぱいなのだろう。何しろトーナメント戦を明日に控え、どのチームも調整に余念がないのだから当然といえた。
ティーダは一つ肩をすくめ、交渉を打ち切った。
片手を上げて軽い挨拶を残し、彼はユウナを伴ってスタジアムを後にした。持ってきたボールを人差し指の上で器用に回しながら、彼女の歩調に合せて歩く。開放的な港の通路から見える海は青く滑らかで、ウミネコの白い背がよく映えた。
ぶらぶらとポートへ向かう。道すがら、ユウナは目を輝かせ、ぽんと両手を打ち合わせた。隣を歩く恋人に大胆な提案を持ちかける
「スタジアムが駄目なら、海で潜っちゃおうか?」
「……?」
再会からこちら、ユウナの変わりようには大分慣れたつもりだったけれども、今でもこうして時々びっくりさせられる。彼女は以前に比べて、自分が楽しいと思うことに執着するようになったように感じる。けれども彼女のそんな「変化」はティーダにとってむしろ好ましく思えた。
召喚士かくあるべきと常識に縛られ、やりたいこともできずに他人のため身を粉にするだけの人生なんてナンセンスだ。
自分が楽しまなくて、どうやって他人に幸せを分けてやることが出来るんだ?
ずっとそんな風に考えていたから。
「5番ポートはが少ないから、あそこなら大丈夫だよ」
彼女の提案に目を細めながら、彼は勢いよく同意した。
「オレのボールをカットできたらユウナの勝ち。それでいいッスか?」
積み上げられたコンテナの上から海面を見下ろしていたユウナが、にっこり笑って頷いた。多少のハンデとして、ティーダはあえて苦手な守備に回る。使われていない埠頭の端から海に飛び込み、二人は一メートルの距離を置いて対峙した。
「よーし、負けないぞ!」
ユウナの無邪気な宣戦布告につい頬が緩みそうになるのを、ティーダは慌てて引き締めた。
例え遊びでも勝負は勝負。勝った暁には美味しいご褒美が待っているとあれば、なおさら負けられない。
何をかなえてもらうか考えるのは、後からにしよう。そう考えて彼は深呼吸をひとつした。
金色の跳ねっ毛が光を弾いて舞ったかと思うと、水飛沫が上がった。海水に身を躍らせた若者を追い、間をおかずにもう一人が続く。ひとつがいのイルカのように巧みな身のこなしで潜りながら、二人は一つのボールを巡って目まぐるしい攻防を始めた。
プレイを開始してから、五分三十秒が経過していた。
――まずいな…。
ユウナの追撃を見事なボールさばきでかわしながら、ティーダは頭の隅でちらりと考えた。守りはどちらかといえば不得手だが、正直言えばユウナは敵ではない。それでも考えていたよりずっと粘る彼女に、逆に心配になったのだ。
水温水圧が完璧に調整された上、幻光虫も添加されているスフィアプールと違い、海中でのプレイは酸素の消費が激しい。けれども夢中になっている彼女自身はそのことに気付けないでいる。
耳鳴りにも似た静寂の中、激しい攻防を繰り返しながら二人はなおも少しずつ水深を下げていた。これ以上は危険だ。タックルを宙返りでかわしざま、ティーダが合図を送ろうとしたときだった。
「…ッ?…!」
ユウナは息苦しさに突然襲われ、思わず空気を吐いた。喉の奥に塩水が容赦なく流れ込む。それを境に彼女の感覚は一変した。天地自在の動きを助けていたはずの水は途端に牙をむき、その圧力をもって体の自由を奪う。急いで浮上しようにも手足に力が入らない。
平衡感覚が失われ、酸欠に気が遠くなる。
――苦しい…。
半ば意識を手放したユウナは、その背に温かく確かな腕を感じた。肺に残るわずかな酸素を吐き出しかけた唇を、柔らかい熱のこもった彼のそれが塞いだ。
蒼く透明な水に、幾千もの光の欠片が乱舞する。華奢な身体をその腕にしっかりと抱きとめると、ティーダは水面へ向かって力強く水を蹴った。
ふわりと上昇する感覚、そして強い水流を全身に感じる。逞しい褐色の胸に頬を押し付け、鼓動が刻むリズムの心地よさに身をゆだねたまま、ユウナは朦朧と水面を見上げた。水の煌めきを通して見る太陽は白く眩しい姿を柔らかな輪郭に包み、結ばれた者達を招く。水を貫いて差し込む幾筋もの光は、未だ見ぬ天上の楽園へと続く道。
冷たい痺れを感じていた指の先から、ゆっくりと感覚が無くなっていく。
このままずっと、抱きしめていて。
キミの腕の中が、わたしの楽園――。
「ぷはっ!」
ユウナを抱きかかえたティーダは、勢いよく水面へ躍り出た。雫の垂れる前髪にも構わず、彼女の無事を確かめる。
「ユウナ!大丈夫か!?」
ぐったりと仰向いた身体が、呼びかけに反応してぴくりと動いた。ひゅうっと小さな音を立てて、肺に新鮮な酸素が流れ込むのが見て取れた。ついでオッドアイが姿を現わし、色違いの宝石に光が戻った。
「良かった〜〜〜」
ティーダの肩から一気に力が抜けた。地上にいれば、へなへなと座り込んだところだろう。
「…あ、ありがとう」
恐る恐る目を開けた間近には、顔をくしゃくしゃにして安堵している彼。大気の恵みをむさぼり人心地つくと、心配をかけた心苦しさと溺れかけた恥ずかしさが一気に襲ってきた。
やっとのことで礼を言ったものの、それ以上言葉が見つからない。もじもじと俯いていたユウナは思い切って顔を上げ、細い腕を伸ばした。そのままティーダの首に絡めてぎゅっとしがみつく。
「恐かった?」
優しく問う声に、彼女は肩口に頬を乗せたまま小さく首を横に振った。
数秒の極限状態は、不思議と恐さを感じなかった。ただ温かな腕の中で奇妙な安心感と幸福感だけを覚えていた気がする。
――キミといれば何も恐くない…。
首筋に顔を埋めると潮の香りに混じって彼の温もりが感じられた。大好きなその匂いを、ユウナは胸いっぱいに吸い込んだ。
突然、海面に青い影が現れ、ユウナの目の前で立体的な像を結んだ。
「あ、ボール…。」
音もなく浮き上がった丸い物体は、ついさっきまで二人が追いかけていたボールだった。ひょいと招きよせてそれを捕まえたユウナは、一人でくすくす笑い出した。いぶかしむ相手に向かって、獲物を捕らえた猫のように得意げな顔をして見せる。
「ボール、取っちゃった。お願い何にしようかな」
「あ〜〜ッ!そりゃ無いッスよ…!」
あまりの論法に情けない叫び声を上げて抗議しながらも、ティーダは毒気を抜かれ二の句が継げない。
いっぽう彼女はもうすっかりその気だ。悪びれもせず、意気揚々と『お願い』を口にした。
「明日は、キミが早起きしてわたしのために朝食を作ってくれるのって、どうかな?」
「そりゃどうせ、言われなくても明日は早起きするけど…」
まだ納得いかないといった顔のまま、ぶつぶつと口の中で繰り返していたティーダは、急に意味深な笑顔になった。熱っぽい視線を注ぎながらユウナの耳元に頬を寄せ、囁く。
「…ってことは、今夜は遠慮する必要がないってことッスね?」
「な、何それ!…?」
弱い部分に吐息を感じて、ユウナは跳び上がった。
「もうっ!そんなつもりじゃないってば!」
本人としては睨み付けて反論したつもりだったろうけれど、勢いを得た彼には追い風も同然だった。目許を染めたまま見上げた顔は、ここだけの話たまらなく色っぽい風情だったから。
「じゃ、午前中に買い物を済ませよう!」
振り上げられた小さな拳をかわして逃げながら、ティーダは満面の笑みで埠頭を指差した。
愛しき人に、楽園を捧げよう。
空と海、二つの青が作る境界線に、恋人達の笑い声が重なり響いた。
[fin]
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FF10 十六周年おめでとう!
初めて合同誌に寄稿した時のものですが、そろそろ再録してもいいかな、と。
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