「何つーか、空が広くなったように感じるな。」 森の入り口に踏み込んですぐ、ティーダは見渡すと半ば独り言のように呟いた。その言葉を受けて、ユウナも空を仰ぎ見る。 言われてみれば、つい最近訪れたはずのユウナにさえ、森の変容は目を見張るほどだった。クリスタル状の樹木はやせ衰え、枝に葉は少ない。競うように茂り空を覆い隠していたはずが、今ではまるで穴のようにぽっかりと青空が見えている。 「こんなに綺麗な風景が消えていくのは、確かに惜しいよな。」 命宿る森マカラーニャの森はスピラから消滅しようとしていた。程近いマカラーニャ寺院の祈り子がいなくなったため、その力も失われたせいだと言われている。滅び行くこの森をなんとか救えないか。スピラの指導的立場にいる三頭は合議した末、その調査をカモメ団に依頼した。 というのは、表向きの話。ユウナがベベルを訪れた際、偶然ヌージ、ギップルもそこに集まっていた。そして茶飲み話の席上でひょっこり出たその話題を、ユウナが持ち帰った。そういうことだ。 ともあれ、滅びを止める手だてを求めて、ティーダとユウナは二人で森に降り立った。 「ホントは…。」 続いた独白は、苦笑混じりだった。 「最初に来た時は、風景なんか目に入らないほどイラついてた。」 思わず顔を向けたユウナの胸にも、ほろ苦い思いが甦る。何もかも自分一人で抱え込もうとしていた未熟な自分。 最初に足を踏み入れたあの日も、青白い燐光に彩られた森はただ静寂をもって旅人を迎え入れた。召喚士の少女は己の抱えたものの重さに苦しみ、言葉少なだった。そして彼女を支え守るガード達もまた、己の苦悩と静かに戦っていたのだった。 赤い飛沫が、小さく弾けた。とっさにかざした左腕の腕輪を僅かに逸れ、クーシポスの鉤爪はアーロンの上腕を掠めた。 「アーロンさん!」 複数の叫びが混じる。肘を染めていく自らの鮮血に眉一つ動かす様子もなく、漢は構えた太刀を真一文字になぎ払った。 したたかな逆撃を食らい動きの止まった魔物を、ロンゾの戦士によって繰り出された槍の一突きが仕留めた。 「痛そう…。」 傷口を覗き込んだリュックがぶるっと肩を震わせる。駆け寄った仲間の一様に青ざめた顔を、隻眼が一なでした。当の本人は意に介してもいないようだ。 「他人に痛がってもらったところで、早く治るわけでもあるまい。」 冷淡な物言いに、金髪の少女はむうっと膨れた。 「人がせっかく心配してるっていうのにさ!」 少々乱暴な手つきで逞しい腕を取ると、アルベドの少女はもう一方の手で腰のバッグから回復薬を取り出した。 傷は思いのほか深かった。リュックの投薬の後、ユウナによって更に癒しの呪文が唱えられたが、全快と言う状態には程遠い。半ば塞がりかけた紅いクレバスは、かえって生々しい痛覚を見る者に連想させた。 召喚士の少女が二度目の詠唱に入ろうとするのを、アーロンはそっけなく遮った。 「もう必要ない。力は温存しておけ。」 低く響く男の声は、ただでさえ威圧感を感じさせずにはおかない。無愛想としか形容できない言葉を浴びて、ユウナの唇は凍りついたように止まった。 「先を急ぐぞ。」 緋色の裾を翻し、さっさと出発を決め込むガードの長に、一同は慌てて後を追った。 無機質めいた植物の群生する不思議な森の中、一行は進む。ふと脇腹を突付かれたティーダは、リュックが意味ありげな視線をよこすのに気づいた。後ろを振り向くその先に見つけたのは、何とはなしに肩を落とした風情のユウナ。俯いたまま黙々と歩く彼女は、自分に注がれる視線にも気付かない。何か考え込んでいるようにも見える。 年下のガード仲間に小さく頷き返し、彼はくるりと回れ右した。 召喚士の少女をとりまく空気が、少しずつ温かみを帯びていくのがわかる。ちらりと振り返り、二人並んで歩く姿を認めたルールーは、前を進むアーロンに声をかけた。 「ご苦労をおかけします。」 一見突き放したかに見える漢の言動は、いつも若者達を成長させるための鍵になるのだ。それを心優しい魔女は見抜いている。 「前の旅から、損な役回りは慣れているのでな。」 威風を漂わせる肩越しに、伝説のガードは唇をほんの少し引きゆがめた。 それとなく歩調を合わせ絶妙なポジションを確保したエースに、ユウナは顔を上げて弱々しく微笑んだ。 いくらかの間を置いて呟いたその声は、やはりいつもの明るさを欠いている。 「アーロンさん、怒ってるのかな。」 「怒らせるようなこと、ユウナはしたッスか?」 軽い調子でティーダは尋ねた。 「ううん。」 ユウナは即答する。自分を元気付けようとする少年の気遣いが嬉しくて、今度は無理せず笑顔になれた。それから自分に言い聞かせるようにして、もう一度胸の中で呟く。あのことは、自分ひとりの胸にしまっておこうと決めたのだ。自分のしようとしている事は、間違っていないはずだ。そう思いたかった。旅さえ続けるのなら、それ以外は自由だと、そう云われたはずだ。 「だったら、迷うことはないッスよ。」 俯き加減のまま隣を歩く、楚々としたたたずまいの少女に向ってアドバイスしておきながら、一方ティーダの胸は割り切れない想いを抱えたままだった。自分と同い年である彼女の、突然の結婚宣言。グアドサラムを出てからこちら、ユウナはずっと物思いに沈んでいた。一度は老師の求婚を断ると打ち明けられ、内心ホッとしていた所だったのに。彼女の翻意は、空に轟く雷鳴に勝るとも劣らない衝撃を伴って少年を襲い、悩ませていた。 召喚士にとって、何が覚悟で、何が権利なのか。―――いくら考えても分からなかった。自分の中で決定的に欠落しているに違いないその認識は、スピラに生きる者にとっては当たり前の事実なのだろう。 不意に、孤独を感じた。 納得しきれていない自分自身の感情をねじ伏せるようにして、少年は笑顔を作った。 「気にすんなよ。アーロンって元々あんな風だから。」 「ううん。私、もっともっと強くならなくちゃ。」 そう言って地面に視線を落とす。ごく細かい光の乱反射がそこかしこできらめき、まるで地面自体が発光しているように見える。 「こんなに弱い自分じゃ駄目だって、分かってはいるの。」 半ば透き通った小さな石ころがブーツの先に当たった。つま先に力を入れると、丸く滑らかなそれは軽やかな音を立てて、道の端へと転がり落ちていった。 「弱いから守るんじゃないッス。」 静かに諭すような声に、はっと顔を上げる。彼の温かい笑顔に潜んだ真剣な目の色を、ユウナは魅入られたように見つめ返した。 「守りたいから、守るんだ。」 「ユウナだってオレ達ガードを守って支えてくれてる。だから安心して切り込んでいけるッス。」 気合がこもるあまりの癖なのか、左拳を握り締めて熱っぽく話すティーダの姿に、ユウナの口元は自然とほころんだ。 「召喚士が若い娘だと、気苦労が多いってさ。心配してんだぜ。あれで。」 「アーロンさんのこと、よく知ってるんだね。」 「そりゃ、オヤジとより付き合い長いから。」 腐れ縁ってヤツかな――と悪い言葉を使っておきながら、少年の言葉には毒がなかった。屈託のない笑顔につられ、オッドアイに少しだけ明るい光が戻る。その様は雨上がり、小さな野の花を飾る水滴の煌めきを連想させた。 「懐かしいって、キミと笑い合えるのが嬉しい。」 ぽつりと零された言葉に、ティーダは静かに頷き返す。 「この森には、たくさんの思い出が眠ってる。キミと来た時のこと、キミがいない間に来た時のこと…」 幽かな蒼い光を受け、黙って耳を傾ける精悍な横顔は、どこか痛みをこらえるようにも見えた。 「アーロンさんの思い出や、ジェクトさんの思い出もね。」 語り続けるユウナの声はそんな彼を慰撫するように響き、森の清涼な空気に溶けた。 失くすことを恐れ、目をそらしたいこともあった。進む先に迷い、逃げ出したくなることもあった。でも全ては二人の「今」に繋がっている。 そう、繋がっている。 先人達の想いもまた、これからの時代を作る者たちの胸に宿り未来へと。 かつて夢の世界から来た異邦人が故郷の息子に宛てた想い。二人の父親の遺志を汲み若者を無限の可能性へと導いた漢の想い。踏み入った人々の数だけ物語があるように、そこに眠る思い出もまた数え切れない。 召喚士として旅をした頃のことを懐かしく思い出し、二人は取り留めのない話をしながら歩いた。森の最奥部、幻光の最も濃い場所へ向かって。 森ではたくさんの物語が生まれ、木々はそれを見守った。 二度目に訪れたこの森は、逃亡者達を追っ手からかくまう味方となった。 その夜、二人は約束を交わした。それは小さいけれども至高の輝きを持った誓約だった。 この地に渦巻く様々な想いを溶かし込んで、泉は変わらず美しい情景を作り出している。夢をこの世に繋ぎ止める唯一の絆もまた、この場所で生まれた。 思い出の地へ足を踏み入れた二人はすぐ、水のほとりに枝を広げる何かを見つけた。ユウナが指を指す。 「あれ、何だろう。」 近付いて見ると、それは一本の若木だった。硬質なクリスタル状ではなく、柔らかで瑞々しい樹皮に覆われている。葉はグリーンで、光に透けて地面に半透明の影を落としている。よく見れば、他にもそこかしこに小さな新芽が顔を出し、大木が広げた枝々に負けじと伸びていた。上空から差し込む天の恵みを受けてきらきらと輝いている。 「綺麗…。」 「今まで森を作っていた木の代わりに、新しく生えてきたんだな。」 森は滅びようとしているのではなく、生まれ変わろうとしているのかもしれない。厳しい自然淘汰を潜り抜け雄雄しく成長しつつある若木は、新しい時代を迎えたスピラそのものに重なって見えた。 「こうして新しい命が生まれるんだね。」 変化を恐れる必要はない。失われるものを嘆く必要はない。 森が滅び、この風景が失われたとしても、神聖な誓いを交わしたこの場所を二人が忘れることは決して無いから。 しばらくの間二人は無言で、新しい命の芽吹く風景をその目に焼き付けた。 「帰ろっか。」 ユウナの声にティーダは明るく頷き、二人は泉に背を向ける。 分かれ道へと進む道すがら、半歩前を歩く彼がふと立ち止まった。振り向くと右手を差し出す。無言で微笑む男に女はにっこりと笑み返し、その腕にしがみつくようにして腕を組んだ。 「ぅわわっ!ユウナ!」 二の腕に柔らかなものが押し当てられたと思った途端、ぐいと下へ引っ張られる。右肘に彼女の上半身をぶら下げた格好になり、ティーダは左手を宙に泳がせたまま慌てて足を踏ん張った。 驚いてバランスを崩しながらも、彼の眼は笑っている。咎めるような声を上げながらも、どこか嬉しそうだ。 過去を惜しむ必要も、捨てる必要もユウナにはなかった。ありのままを受け止めてくれるかけがえのない人が隣にいる限り、新しい思い出を共に重ねていくだけでよかった。 ひとしきり笑い声を上げたあと、ティーダはユウナの華奢な肩に腕を回し、そっと抱き寄せた。寄り添い触れ合う先から伝わる確かな温もりは、お互いにとって何よりも尊い約束の証。 重なりひとつになった影を、変わりゆく森はただ静かに見送っていた。 −FIN- |