ココロ伝エシ
熱っぽいだるさに倦んで、ユウナはテーブルの上に頬杖をついた。
今朝、彼を送り出した時はさほどでもなかったのに、喉の些細な違和感はだんだんと強くなって、夕方には痛みに変わった。
重い頭をめぐらし、掛け時計に目をやる。針は8時半を指していた。ティーダはまだ帰ってこない。夕方から取材の打ち合わせと食事会が続くから遅くなると聞いた。
彼女は背筋を走った悪寒に身を縮め、くしゃみをひとつした。
「今晩は特に冷えてるのかも」
一人きりの部屋で、あえてひとりごちてみる。そういえばさっきのニュースで、今シーズン初めて木枯らしが吹いた話題が出ていた。
熱が出てきたような気もするけれど、認めると、そのまま動けなくなってしまうような気がした。
できれば、彼の帰宅をこのまま待っていたかった。
──出迎えて、向かい合って、『お帰り』を言ってあげたい。
理由の大半は、彼女のいじらしい恋心からくるものだった。けれども今日に限っていえば散文的な原因も混入していて、それはティーダのささやかな前科に由来する。
普段から身の回りのことはしっかりしている人間のはずなのだが、ことユウナが在宅していると甘えが出るとみえ、鍵を持たずに出かけるという子どもっぽい失敗をしでかす前例があったのだ。
そして今朝、ユウナは、彼に家の鍵を持ったかどうかを確かめ忘れてしまった。いま思えば既に調子を崩していたのだろうが、気付いたときには時既に遅かった。
鍵を開けたまま先に休むのでは不用心だし、かといって帰宅した恋人に締め出しを食らわせたのでは目も当てられない。
──いつもの置き場所には見当たらないから、多分大丈夫だと思うんだけど…。
まだ9時前だというのに、もう瞼が重い。回らない頭で、ティーダの体調は大丈夫だろうかと考える。朝の出かけ際、気の進まない外食にぶつくさ言っていた恋人の姿がふと浮かんで、彼女は口の端に笑みを刷いた。
仕事だからしょうがないよと諭すと、ティーダは尚も、
「なるべく早く帰るから、っつか、家でユウナと一緒にご飯食べたい。行きたくない」
と、唇を尖らせて過密スケジュールへの不満を訴えていて、それから──。
彼女はそこでようやく、今すぐ彼に連絡する方法があったことを思い出した。
例の通信スフィア装置を、彼は今日もポケットに入れていた。先日リュックと会った時に、使い勝手を試してくれと預かった試作品だ。通信スフィアをより小型化軽量化する開発の一端で、音声ではなく文字による短いメッセージをやり取りできる。長さは人差し指ほど、幅はスフィアブレイクのコイン並みと、従来のスフィアに比べ驚くほど小さくて軽い。文字の入力が少々面倒なのと送信エラーが少なくないのとで、正直なところ今まであまり出番がなかった。
小さなスフィアを、机の上に置く。ぼんやりした頭で、短く的確な文章を組み立てるのは骨が折れた。そして入力は更に億劫な作業となったが、ユウナはそれでも何とか時間をかけて、短文を完成させるに至った。
ゴメン サキニネルカモ
半透明の小窓に並んだスピラ文字は、いかにも無味乾燥な印象だった。けれども彼女は最初の三文字に気持ちを託し、祈るような心持ちで送信ボタンを押した。
果たして、返信は時を置かずやってきた。ウインドチャイムの澄んだ音に、ユウナはハッと端末に見入った。
この時間ならお酒が入っているはずだから、もしかしたら気付かないかも。そう思ってもいたが、杞憂だったようだ。
流れ星を連想させる着信音に続き、彼のもとから飛んできたメッセージが、スフィアの表面で小さく光った。
シンパイシナイデ オヤスミ
ドットの集まりで構成された文字列は、彼女の胸に愛しい人の声で『心配しないで、お休み』と響いた。
そこへもう一度、着信音が鳴った。浮かび上がった一文は、更に簡潔だった。
カギアルカラ
安心させようと後から思いついたのか、それとも最初の一文を早く送るために分けたのか。いずれにしても心配していたことが、言わずとも伝わっていた。
彼も慣れない文字入力に苦心しただろうか。端末相手に奮闘する姿を思い浮かべながら、彼の気遣いに、またひとつ、ほわりと胸が温かくなる。
ユウナは椅子を引いて立ち上がった。頭が少々ふらついたけれど、気持ちは軽やかだった。
毛布を被ってリビングで待つという考えも頭をかすめたけれど、帰ってきた彼をかえって心配させるような気がしてやめた。
バックライトの消えた端末を手にとり、ベッドに向かう。両の掌に抱いたスフィアは、滑らかな手触りと共に、ほのかな温みの余韻をも伝えるようだった。
[FIN]
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久しぶりに書きはじめてみたら、また病気ネタだった件。ごめんなさいごめんなさい
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