言葉そのものは、発した者にとって半ば意味を持たなかった。

 声が、届く。
 ただそれだけのことを確かめるかのように。

 鮮やかな色彩を誇り、競うように咲き乱れる花々。ここは命の源に最も近い場所。




Sanctus






「きれいな…花だな。」

 ふと手に触れた一本に目をやって、彼はつぶやいた。薄桃色をしたフリルのような花びらが重なって、優しいたたずまいを醸している。見覚えがあるように感じるのは、あるいは気のせいだろうか。戦時下の機会都市では花などなかったような気もするし、そもそも花に詳しいわけではない。
 ましてや一人ぼっちで目覚めてしまってからは、美しい物に目を向けることなど到底できなかった。
 ただ無力な我が身を呪い、くだらない争いに興じる生者を憎み、求めて得られない苦しみの炎に焼かれるばかりの長い長い時間。

「うかない顔だね。」
 ハスキーなアルトに問いかけられ、物思いに沈んでいた青年の意識は水面へと急浮上した。首を傾げるように覗き込む彼女が、甘く微笑んでいる。淡い光の明滅が栗色の長い髪を飾るかのように縁取って、ゆらめき立ち昇る。
 1000年の時を経た今でも変わらないで、いやむしろあの頃よりも。彼女の全てが愛しく、尊く思える。
 濡れたような艶を含んで輝く恋人の瞳は、今の自分には少し眩しい。

 金の髪を僅かに震わせ、男は湖水の色をした目を伏せた。
 風にそよぐ花びらが、腕をくすぐるように触れる。手折ろうかどうか少し迷った後、彼は指を引くとそのまま膝を抱え込んだ。
 傷の癒え切らぬその姿に心配げな眼差しを向けていたレンは、再び微笑みを美しい目許に乗せた。
「その花、私も覚えてるよ。」

 彼は曖昧に頷いた。この花が彼女の記憶にどんな形で刻まれているのか、にわかには思い出せなかったのだ。

 陽だまりのような幸せの欠片を思い出そうとするのは、今のシューインにとってひどく難しいことだった。長きにわたり自分を縛り続けた呪わしい記憶は、心に光を呼び戻す勇気さえ彼から奪い取っていた。
 どんなにもがいても闇を祓うことはかなわなかった。どんなに憎しみをぶつけても自分の中のどす黒い感情は癒されるばかりか逆に膨れ上がって自身を押しつぶした。それならいっそ全てを無に帰してしまえばいいと思った。


 彼女の思い出に同調できない自分が、ひどくもどかしい。


「ヴェグナガンの力を手に入れたがるヤツは、この1千年の間少なくなかったよ。」
 そのたびに、深淵に沈もうとしていた意識は引きずり出され、荒れ狂う奔流のような悲しみと狂気に身を任せるしかなくて。
「悔しかった。もうどうなったって構わないと思ったんだ。」
 気の遠くなるような時間を孤独と共に渡った青年は、背を丸めたまま肩を震わせた。
 ちぐはぐな答えだなんて、自分でも承知の上だった。それでも彼女の優しさにすがらずにはいられなかった。 
「もう…、いいんだよ。」
 女は恋人の金髪をかき抱く。涙に濡れた頬に自分の頬を押し付けるようにして。
「もう、一人で泣かなくても。」

 レンの耳に、掠れて切れ切れな声が届いた。
「…今度こそ、あきれただろ?」

 憐れな罪びとは息を殺して言葉を待つ。僅かな衣擦れと密やかな息遣いのみが聴覚を支配する、永遠とも思える一瞬。

「…どうして?」
 女の短い問い返しは、恋人の悔恨を否定するためのものだった。自分を守るために世界を引き換えにしようとし、まして自分のために気の遠くなるような時間を苦しんできたのだ。
「私、嬉しかった。」
 陶然と歌うように、レンはつぶやいた。胸の底から湧き上がる、愛しくてたまらない気持ち。溢れる想いを伝えるのに、言葉は時に無力だ。

 恋人の両肩に手をかけると、彼女はそのまま腕に力をこめた。 
 花の褥は、折り重なって横たわる二人の半身を柔らかく受け止めた。

 愛しい人を胸の上に抱きとめたまま仰向けになったシューインの目に、星空が映った。圧倒的な光点の群れに思わず瞳を閉じる。
 銀砂を流したような明かりをまとい、遥かに広がる天蓋。七色の光の帯が幾重にも重なり、命の力渦巻く地へ降り注ぐ。
 衰え、病み疲れた魂に、豊かな恩寵あれとばかりに。

 広い胸に頬をすり寄せるようにして、レンは蠱惑的ですらある唇から含み笑いを漏らす。
「君の無鉄砲は、今更始まったことじゃないもの。」
「何だよ、人がせっかく反省しているのに。」
 からかいを含んだ物言いにつられたように、彼の唇は笑みを形作った。…もっともその目は恐れを宿したままきつく閉じられ、そして表情は泣き笑いの域を出なかったけれど。

 恐る恐る目を開ければ、この世に存在する何よりも美しい1対の宝石が見下ろしている。久しき時を経てようやく戻った安息を噛み締めながら、青年はおずおずと手を伸ばした。
 指先に触れる、頬の温かみ。それは微かな、けれども確かな波を伴って、彼の奥底に眠るものをまた一つ甦らせる。



「ツアー成功の前祝だ。」
 無造作に放り投げられたピンク色の花束は、綺麗な放物線を描いてバサリと歌姫の腕の中に落ちた。
 楽屋の隅に置かれた椅子。壁に向かったまま一人震えていた新人スターは、文字通り跳び上がった。空から降ってきた両手いっぱいのプレゼントを抱えたまま、立ち上がって振り向く。がちがちに緊張していても、その足取りはダンスステップを踏むように軽やかな美しさを感じさせた。
「ライブハウスだろうが、ホールだろうが、ドームだろうが、俺たちのやることはひとつだろ?」
 金髪の恋人は、にやっと不敵な笑いを作った。
「そうだね。」
 頷くと、薄桃色の美しい花々が一斉に揺れた。これから大きなステージに臨む彼女に、エールを送るかのように。
 








 美しい花々が静かに祝福を送る中、剣士と歌姫は寄り添ったまま長いこと座っていた。



「君は、あの機械兵器の起動をあきらめて、私の望みを最後まで守り抜いてくれた。」
 届かなかった指先。届けたかった想い。
 傷つけなければ生きられないのなら、いっそ二人で消えたいと思った。本当に罰せられるべきは…愛するがゆえ自らの滅びを願った私―――。
 許しを与える彼女の瞳は、恋人への懺悔に潤む。
「それは、…」
 レンの悲しげな顔を見るのが、彼にとって一番辛いことだった。困ったように口ごもった表情は、青年の秀麗な面立ちをまるで迷子のように頼りなげに見せた。
「世界の全部を敵に回したってかまわない。けど君を悲しませたら意味がない。」
 男は女の華奢な肩に、おずおずと顔を寄せた。 
「レンに嫌われたら、俺の存在意義なんてこれっぽっちもないから。」
 長い髪の一房を手に取ると、そっと口付ける。歓喜の到来に打ち震え、女神の裳裾に拝跪する愚者のように。

 すがるような眼差しを向けられて、歌姫はあでやかに微笑んだ。

「命の終わりが、私達の終わりじゃない。」
 光を溶かし込んだような金糸を何度も梳きながら、彼女は愛しい人の瞼に口付ける。
「眠ろう。」
 静かに、穏やかに。 互いの鼓動だけを確かめて。














 歌を、贈ろう。
 光溢れる地へ。




 年老いた恒星がこの星を飲み込み、宇宙の灰塵と帰するときが来ても。
 命の輝きは光の軌跡となって、無限の虚空をめぐるだろう。



 
 -FIN-

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