growthリビングに足を踏み入れた男は、一つしかない目をすがめた。壁際に、見慣れない色彩を認めたからだった。 この家の幼い主人が獲得した数々の盾やトロフィーの脇に、フラワーアレンジが無造作に置かれていた。 桃色のチューリップを中心にしてまとめられた小ぶりの籠。 無機質の造形に囲まれる中、花弁が醸す柔らかな曲線は、随分と異彩を放って見えた。 あの人が亡くなってから、この家に生花が飾られたことはあったろうか。アーロンは記憶の糸をたぐってみたが、花のある風景は思い出せなかった。 「何だ、これは」 問いに対して、ひょいと顔を覗かせた少年は、生意気盛りの口を利いた。 「チューリップだろ。見て分かんないのかよ」 後見人にくるっと背を向け、ティーダは再びキッチンへと引っ込んだ。練習で声を張り上げでもしたのか、それとも風邪なのか、高い声は僅かに掠れている。 「練習の帰りに、女の子からもらった。クラブの時間に作ったからって。その子、手芸クラブなんだってさ」 恐らく照れ隠しなのだろう。聞かれてもいないのに、彼はぺらぺらとまくし立てた。 「アーロン、持って帰る?」 「お前へのプレゼントなんだろう。邪険に扱っていいのか」 保護者がそうたしなめると、無邪気なティーンエイジャーは 「女の子なんて、めんどくさい」 冷蔵庫のドアを閉める音と共に言い放った。 「そういう台詞は、女を知ってから言うものだ。お前には100年早い」 「何だよそれ、それじゃオレ、すっげー爺さんになってるって」 母親の死を間近に体験してはいても、生命力に溢れた若い魂にとって、自分の死など、ひとかけらの想像すら難しいに違いない。自分が112歳になるまで生きていることを微塵も疑わない様子に、アーロンは苦笑せずにはいられなかった。 或いは、このぬるま湯の中で眠り続けるように平和な生活が永劫に続くのなら、それも可能なのだろうか。 ………。否。誰よりも死をよく知る漢は、自らの仮定にそう結論を下した。 夢のように穏やかなこの停滞は、そう遠くない未来のうちに、打ち砕かれるだろう。つかの間のナギ節が終わる、その時に。 自分のいた世界には、いつも死が影を落としていた。シンという名の巨大な影は、多くの命を奪い、敬愛する主を奪い、そして親友を奪っていった。そして、これからも、飽くこともなく更に多くのものを奪い続けるのだろう。 目覚めた少年は、そのとき何を思い、何を選び取るのか。 物思いに沈んだ男は、再び視線を落とした。 「コーヒーは、ブラックでいいんだろ?」 マグカップを両手に持って、ティーダはリビングへと入ってきた。可愛らしい色合いの籠を見つめたまま微動だにしない男に、青い目がいぶかしげな視線を投げかける。 「女の子って、何考えてるか、イマイチ分かんないな」 沈黙を何と受け取ったか、少年は肩をすくめながら付け足した。 黙っていた男が、唇の端をわずかに吊り上げた。 「花言葉は、”愛の芽生え”だそうだ」 「…はぁ?」 無骨な男の唇から、およそ似つかわしくない単語が飛び出したので、耳にした少年は、虚をつかれて思わず間抜けな返事をした。 折りたたまれたセロファンとオアシスの間に、隠されるようにして挟まっていたメッセージカード。彼は、そこに書かれた文字を読み上げたのだった。 「お前宛てのメッセージだ。『桃色のチューリップの花言葉は、”愛の芽生え”です』だと」 人の悪い笑いを貼り付けたアーロンは、歯の浮くような言葉を繰り返すとカードを取り上げて見せた。節くれだった指に挟まれた紙片には、手書きの丸い小さな文字が並んでいる。 それを見て、ティーダは顔色を変えた。メッセージの存在に、今の今まで気づいていなかったのだ。 「ちょ…っ!貸せってば!」 少年が顔を真っ赤にして、なおもニヤニヤ笑いを浮かべたままの保護者からカードをひったくった。手にしたそれを恐る恐る覗き込み、彼は読み上げられた一文以外は何も書いてないことを知って安堵のため息を吐いた。 「勝手に見るなっつーの」 「俺にくれたのではなかったのか。そもそも、カードに気づいていなかったお前が悪い」 抗議という名の八つ当たりに、男がしれっと切り返す。ふくれっ面の子どもは、更に何かを言おうとしたが、結局口を尖らせたまま押し黙った。そのまま論争を続けても、分が悪いと踏んだのだろう。 淹れたてのコーヒーが醸す良い香りが、湯気と共に立ち上る。 「……やっぱり、女の子って、よく分かんないな」 ティーダ少年が、ぼそりとつぶやいた。 「確かにそうかもしれん」 マグカップの底を覗き込みながら首をひねる表情が、線の細い面立ちを更に幼く見せていた。年相応ともいえる悩みに、アーロンは再び笑った。今度は少々の同情が混じった笑いだった。 有名人の息子である上、自身も将来を有望視されているブリッツプレイヤー。保護者の自分が言うのもおかしな話だが、外見も能力も性格も、平均点を相当上回る。弱点をあえてあげるとするならば泣き虫な点だろうか。『カノジョ』の座はさぞかしステータスになるに違いない。 強烈な魅力を振りまいておきながら、それを彼自身は自覚していない節がある。鈍いのか、単に幼いだけなのか、異性の心理を理解するには到底至らないようだ。 もっとも年端のいかない娘の恋心など、大人である自分の理解をも遥かに超えている。 メッセージからは、花を贈った真意がまるで掴めない。何か書き添える勇気が足りなかったのか、それとも花言葉を用いることで勿体ぶった演出を試みたのか。 「それよりお前、喉をどうかしたのか」 さっきから喉を押さえる仕草を繰り返しているのが気になって、尋ねてみると 「ああ、これ?体はなんともないんだけど、2,3日前からこうなんだ。風邪なのかな」 ティーダは、眉をしかめて小さく咳払いした。掠れて僅かに低くなった声を聞いて、男は原因に思い当たった。 子どもの成長は早い。ついこの間まで、ほんの幼子だった気がするのに。 「そろそろ声変わりの時期だろう。成長期だからな」 「ふーん、そっか。…そういえば、腹減った」 どこか他人事のような調子で生返事をしたあと、脈絡のあるような無いようなコメントを口にした子どもはニッコリと笑った。伸び盛りにとっては、色気より先に、まず食い気と見える。 「アーロンは晩飯どうすんの?何か予定ある?」 「今晩は予定が無い。好きなものを喰いに連れて行ってやるぞ」 「ほんと?やった!」 心持ちハスキーな声で叫んで彼が輝かせた眼は、澄み渡った空のように眩しく青い。 持ち前の明るさで平気を装っていても、時おり人一倍寂しがり屋の素顔が覗く。 初めて会った日から5年。あの日、親友の息子は、突然現れた素性の知れない男を、大きな目に疑いと脅えを浮かべて睨み上げていた。幼なかった子どもは、今や同じ瞳に全幅の信頼をもって自分を写している。子どもにとって5年という歳月は、無限の可能性をもって彼らの目の前に広がっているのだろう。 謝罪も、後悔も、迷いも、言い訳も、一切口にするまい。ただ己が正しいと信じた道を進み、若者を導くのみ。 伸びやかに成長していく少年が、真の命を生きること。それが、友との誓い。 重い思考は、ティーダの弾んだ声によって途切れた。 「アーロン早く!オレもう腹減って、死にそう」 「3回ほど死んでみたらどうだ」 「死んだら、せっかくのメシが喰えないっつーの!」 玄関口で足踏みしながら、彼が尚も呼んでいる。答えたアーロンは右手の指でサングラスを押し上げ、緋色の裾を翻した。 不可思議な縁で結ばれた二人の、家を出て行く後姿を、首を僅かに傾けた桃色のチューリップの一群れが、静かに見送っていた。 子どもの日にちなんで、テーマは成長?(疑問系かい) チューリップの話だけでまとまるはずだったのに、保護者が出張りました。(言い訳ッスね) 擬似親子ネタ、好きです。 [Back] |