雨が、降っていた。天を削らんばかりのビル群を煙らせ、華やかなイルミネーションをにじませながら延々と降り続いていた。おとといの昼過ぎから降り出してからこちら、未だにやむ気配すら見せていない。
 海を隔てて見える、眠らない街の灯りを忌々しげに睨み付け、ティーダはもう一度、塊のようなため息を吐き出した。
 
 灯りを背にしているのではっきりとは見えない。けれどもどことなく幼さを残した少年の横顔は蔭り、憂いの淵に沈んでいることは疑いようもない。いつもは太陽のかけらを閉じ込めたように輝く瞳も今はその光を失っていた。
 無理もない。あの事件からこちら、彼が失ったものは小さくなかった。









  Good Luck,My Boy 










 事の発端は五日前にさかのぼる。
 クラブ仲間のニコルと別れた後、家路に向かったティーダはそいつらと出くわした。明らかに目つきのよくない五人組が歩道いっぱいに広がっていて、最初から嫌な感じはしていた。すれ違いざまに彼の懸念は現実になった。端にいたピアスだらけの男が、肩がぶつかったとわめきたてたのだ。
 お約束のような展開にうんざりしながらも、ティーダは無視を決め込んだ。この界隈でこんな小さないざこざは珍しくもない。頭を下げるのも業腹だし、丸く収まるとも思えない。かといってこの格好でケンカ沙汰を起こすわけにはいかない。あいにくとこっちはクラブチームのユニフォームのままなのだ。取り合うだけ馬鹿馬鹿しいし、第一向こうからぶつかってきておきながら難癖をつけてきたのだ。
 振り向きもせずそのまま立ち去ろうとするティーダの背に、下卑た嘲笑が突き刺さった。

「伝説の選手、ジェクトの息子様は、話のつけ方も知らない腰抜けだとよ。」 

 彼の歩みが凍りついた。父親の名を持ち出されることを何よりも嫌うこの少年にとって、一番聞きたくない言葉だった。青い瞳に怒りの閃光をほとばしらせ、言いがかりをつけた男を睨みつける。前歯の欠けたその男は、嫌なニヤニヤ笑いを浮かべて見下ろしている。

「あんた達みたいなウスノロに付き合ってるほど、暇じゃない。」

 ありったけの演技力を総動員して思い切り挑発的に言葉を叩き込んでやる。チンピラどもの顔色が変わった。独創性のかけらもない脅し文句を吐き散らしながらティーダの周りを取り囲む。不穏な空気に、周りがざわざわと騒ぎ出した。

 …五人か。でも左脇の奴はともかくとして、隙だらけだよな。
 少年は、素早く考えをめぐらせた。人気のない場所へ連れて行かれると厄介なことになる。大事になる前に切り抜けなくてはならない。
 ブリッツで鍛えられていたのは体だけではなかった。激しいプレイの応酬の中で研ぎ澄まされた判断力が、ジュニアハイスクールに通う弱冠15歳の少年に自信と冷静さを与えていた。

 遠くでサイレンの音が聞こえる。囲んでいる一人が気をとられたのをティーダは見逃さなかった。脇腹を狙ってブレイクスルーをかけ、素早くチンピラどもの群れから抜け出す。
 出し抜かれていきり立ち、五人組は罵詈雑言をわめきながら追ってきた。
「文句があるなら、スタジアムで聞いてやるよ。」
 捨て台詞を残すが早いか、ティーダは地面を踵でタンッと蹴りつけた。彼の機動力は地上でも遺憾なく発揮された。人込みを縫うように潜り抜け、あっという間に追っ手をまくことに成功していた。

 文句があるなら、スタジアムで……
 それは、ブリッツ少年にとっては合言葉ともなっているお決まりの文句だった。選手として成功し、ザナルカンド中の耳目が集中するスタジアムに立ったときに白黒をつけようという意味である。ブリッツの選手はその人気の高さゆえに、ある意味制約も多い。ブリッツのフィールド内では何でも有りの彼らだったが、特に傷害事件に類するスキャンダルはご法度だ。明日のスタープレイヤーを夢見る者にとっても、私闘の類は厳しく禁じられていた。禁を犯せば将来を棒に振ることになりかねない。
 だからこそ彼も、すんでのところで冷静さを取り戻し、ケンカ沙汰を回避したのだ。

 けれども、その後の展開はティーダにとって納得のいかないことばかりだった。
 取るに足らない小さないざこざだったはずのそれが、何故か学校の知るところとなった。事件そのものを隠蔽する目的から、彼は弁明の機会を与えられないまま処分を受けた。噂によると、「この一件をゴシップ記事専門のタブロイド誌に売り込む」等と脅迫まがいの書簡が送りつけられたとも言われるが、いずれにしても定かではない。名門ジュニアチームを抱え、毎年数多くの優れたブリッツ選手を輩出する学校側からすれば、風評が学校の名誉を傷つけるのを放置しておくわけにはいかなかったのだ。
 事の詳細がはっきりするまで自宅謹慎。もちろんクラブチームへの練習参加も認められない。学校側としては落とし所ではあったのだけれど、ティーダにしてみれば到底承服できるものではなかった。


 雨脚は益々強くなり、無数の水滴が黒々と光って窓ガラスを流れ落ちる。カーテンを引くことさえ忘れて雫の軌跡をぼんやりと眺めるうち、ふと窓の脇にかかるカレンダーが目に留まった。
 …今日で三日目か…。
 明日の日付を示す数字の下に、赤い字で走り書きしてある。ザナルカンドエイブスの監督が母校、つまりティーダの通う学校を訪れる予定の日だ。
 対外的には非公式だがクラブチームも視察する予定だから気を引き締めておけと顧問に言われたのがずっと昔のことのように感じられる。ほんの一週間前のはずなのに記憶がひどく遠い。練習に参加してその実力をアピールするチャンスだったのに、一体どうしてこうなってしまったのだろう。逃がした魚は大きいとはよく言われるけれど、本当に大きかったのだから落胆もひとしおだ。
 そこまで考えて、少年は小さく唸りながら蜂蜜色の跳ねっ毛をぐしゃぐしゃと掻き回した。考えまいとすればするほど深みにはまってしまう。いやでも自分の境遇を再認識させられるはめになり、ティーダはさらに陰鬱な気分になった。

 
  

 リビングに、来訪者を告げる玄関チャイムが鳴り響いた。軽やかなその音さえ、今の彼には生癒えのキズを引っかかれるような不快感を伴って聞こえた。
 玄関へ向かってのろのろと歩き出す。インターホンを取らずとも、見当はついている。この時間なら恐らく彼だろう。
 ドアの鍵を開けると、ティーダの予想とは別の人物が立っていた。待ちくたびれたといった風情の郵便配達員が早口でまくしたてた。
「速達ですよ。」
 少年の両手に大きな封筒を押し込むようにして、配達員はせかせかと雨の中に消えていった。

 ティーダが受け取った郵便物の中身に目を通し終わろうとする頃、再びチャイムが鳴った。鍵はさっき開けたままだから、アーロンならば勝手に上がってくるだろう。
 果たして少年の考えた通り、緋色の上着から水滴を滴らせた男がリビングに入ってきた。父の友人と名乗って現れ、今では自分の後見人を務めるその男は、不機嫌を絵に描いたような少年の表情を意に介さず、ずけずけと口を開いた。
「いるのなら、さっさと出ればよかろう。」
 ティーダは持っていた書類からちらりと目を上げ、鼻の頭にしわを寄せた。
「オレ今、人間不信なの。」
「単に拗ねているだけだろうが。」
 冷ややかな視線をまともに浴びて、答えにつまる。
「うっせーんだよ。おっさん。」
明らかに分が悪い。不毛なやり取りに終止符を打つべく、手の中の書類をアーロンへ突き出す。
「何だ、これは。」
 直接には答えず、テーブルの上に投げ出してあった封筒を取り上げながらティーダはぼそりとつぶやいた。
「オレ、ダグルス入りしようか…と思ってさ。」
 書類から視線を上げると、アーロンは鋭い眼光を少年へと向けた。
「少しばかり仕置きを受けたからといってヤケになるのでは話にならんな。」
「そんなんじゃないって言ってんだろ!」
 痛いところをつかれ、彼はイライラと叫び返した。
「ただ、悪い条件じゃないし…今回の事件は不問で、しかもテストなしで今すぐ来期契約だぜ?悪いどころか破格の待遇だろ?」
 少年の長い指が書類の端をパチンと弾く。
「コミッショナーを介さずに直接か。話がうますぎるとは思わんか。」
 アーロンの言葉は少年の耳には届いていなかった。一度芽生えた不信は、ほんの少しの悪意を養分として容易に巨大なものへと成長する。東A地区の雄として有名を馳せるザナルカンド・エイブス。このチームは八年前まで大嫌いな父親、ジェクトがエースの座をつとめ、今なお惜しみない憧れと賞賛を捧げられていた。ティーダも当然のようにこのチームへ入ることを目標としてきた。他の選択肢など今まで考えたこともなかった。けれどもここにきて、今回の不当な待遇に対する彼の不満は、よくない形となって噴出しつつあった。

 あえて敵側に回って父親の虚像を打ち砕くのも、痛快じゃないだろうか。
 その思いつきは、甘美な誘惑に満ちていた。
 
 そこを狙ったかのように届けられた一連の書類。
 彼の気持ちは揺れた。


 アーロンが放った冷徹な声は、そんな少年の心に冷や水を浴びせるがごとく響いた。
「とにかく一度頭を冷やせ。のぼせた頭ではいくら考えても無駄だ。」
「わざわざイヤミ言いに来ただけなら、帰れよ。」
 隻眼が再びじろりと少年をねめつけた。漢が醸す圧倒的な威厳に負けじと精一杯の虚勢を張る彼だったが、その姿は痛々しささえ感じさせた。。

「用ならある。これを渡しに来た。」
 そういって、彼は懐から小さな紙包みを取り出した。手厳しい言葉の応酬を予想して身構えていたティーダは、後見人の意外な行動に、完全に虚を衝かれた形になった。
 青く澄んだ瞳を丸く見開いたまま黙って見つめている彼の前に、それは静かに置かれた。包装紙の端は心なしか黄ばんでいて、どこかで長く保管されていた風だった。
「何だってんだよ。」
 何気なく摘み上げた少年は、目の前にいる男の口から信じられない言葉が飛び出すのを聞いた。






「お前の母親から預かったものだ。」




-To be continued-
 

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