旅行公司の一室で、ユウナはようやく意識を取り戻した。 「…気がついた?」 覗き込むリュックのアップが、視界に飛び込んだ。うるんだスパイラルアイズがくしゃりと笑み崩れる。 「んもう、み〜んな心配したんだから。ね?ティーダ?」 片膝を抱えて椅子に座っていた少年は、弾かれたように立ち上がると枕元へ寄った。 「おはよう、寝ぼすけ召喚士様。」 口調は冗談めかしていたけれども、それは 泣きたくなるほどの安堵を隠すため。 「…心配かけちゃったね。」 くすっと笑ったユウナの言葉に、ティーダは形のよい口元を引き結んだ。蒼天を思わす双眸に、固い光が浮かぶ。 「しかしさあ、まる二日ってのは寝すぎだろ?」 にわかには信じられなくて視線を泳がせた先、アルベドの娘も真面目な様子でこっくりとうなずいた。驚きの色を隠せず、少女は口元を両手で覆った。 鉛のような空気が、部屋を支配した。 戦闘不能ならば、解除する方法がある。けれども召喚士の少女が陥った昏睡は、どんな秘薬も魔法も受け付けなかったのだ。 「取りあえず、あたしみんなに知らせてくる。後で一緒に来て!」 ユウナが何かを言おうとするのをさえぎるかのように、リュックは風のごとく走り去り、ドアの向こうへ消えた。 再び沈黙が訪れる。 「もう、偶然とか言ってられないッスよ。」 射込まれるような視線に、少女はシーツを握り締めて身を縮めた。 最初の兆候が見られてからというもの、召喚を試みるたび不調は益々酷くなっていった。全く呼びかけに応じないうちはまだ良かったが、今回ついに恐れていた事態が起きた。召喚獣に命令を下そうとした刹那、召喚士は突然昏倒したのだ。 膝まづくと、彼は両手を伸ばした。やわらかく流れる栗色の髪をさらさらとすき、白い頬を挟み込む。何かを言おうとして、少年はふるふるとかぶりを振った。深いため息の後、もう一度彼は少女の視線を捕らえた。 「心配したんだ。本当に。」 仰向かされた先、息がかかるほどの距離に彼の顔がある。目まぐるしくその輝きを変え、自分を魅了してやまない真っ直ぐな瞳。けれども今は目を合わせることが辛かった。自身の迷いを全て見透かされてしまいそうで。 唇を重ねられ、甘くとろける感覚に溺れながら、少女は思う。 遺してゆく者と、遺される者は、どちらの悲しみがより深いのだろうと。 リュックの知らせでひとまずは安堵を得たガード達だったが、本人を交えたミーティングは重苦しい内容にならざるを得なかった。 「祈り子様が答えてくれないって訳か?」 ユウナの説明に、ワッカが首をひねりながら腕を組んだ。 超常の力を備えた召喚獣は、召喚士の祈りによって別次元から呼び出され、幻光虫を憑代としてスピラに具現化する。そのためには、召喚士は己を保ちつつ自分の精神を祈り子の魂に同調させなくてはならない。類まれな素質と共に並大抵でなく強い精神力が必要とされるゆえんだ。旅を続けることに迷いを生じた結果、祈り子から見放され、召喚の能力そのものを失って挫折する召喚士も少なくない。 「召喚に失敗するだけならまだしも…。」 下を向いたままのユウナを、ルールーは沈痛な面持ちで見やった。 「どのくらい危険な状態なのかは、自分が一番分かっているでしょう?」 困難を極める旅路の中で、召喚士と召喚獣の結びつきはより深まる。しかしひとたび同調が狂えば、召喚は極めて危険な作業と化す。強大な力を持つ召喚獣であればあるほど、その制御は難しい。心の弱った者が行えば、己の心を別次元に吹き飛ばされ、破滅する場合さえあり得るのだ。 彼女自身、過去にガードとして二度の旅を経験し、また志半ばで倒れた召喚士たちの話を数多く見聞きしてきた。妹とも思う少女の身を案じるあまり、厳しい口調になるのは当然のことといえた。 どんよりと重い静寂を、黒衣の魔道士が再び押し開いた。 「寺院へ行って、何か手がかりを探しましょう。」 彼女の言葉に、召喚士の少女は怯えたような目を向けた。 「ともかく、このままでは旅は続けられん。どうするかは自分で決めることだ。」 重く、静かな声が事を決した。アーロンの冷酷とも取れる宣告に、彼女はか細い声で返事をした。 「ビサイド寺院へ行き、祈り子様と会います。」 試練の間を抜ければ、高い天井まで精巧な彫刻と複雑な文様に彩られた壮麗な空間が広がる。その先には寺院の最奥に位置する祈りの間。祈り子のおわす聖なる廟だ。 「一緒に行こうか?」 金髪のガードが問う。前回訪れた時には、全員が祈りの間に入ることを許された。恐らく祈り子が夢の螺旋を断ち切る者達の顔を見たがったためだろう。もっともガード達の大半は祈り後の姿を「見る」ことはかなわなかったが。 召喚士は首を横に振った。 「これは、私自身の問題だから。」 祈りの間へと続く入り口を見上げたまま、呟く。青と翠の瞳に思いつめた光を浮かべて。 階段を登りきった所で、ユウナは皆に向き直り会釈した。背後で重々しい音が響く。石造りの扉が上がると羽のような形状の内扉が開き、訪問者を受け入れる。 「では、行ってきます。」 言い残して、彼女の姿は扉の向こうへ吸い込まれた。 「ユウナん、大丈夫かな。」 広間の壁際に座り込みながら、リュックが誰にともなく呟く。 「信じるしかないわね。ビサイド寺院の祈り子様とは長い付き合いになるし、何か解決の糸口になればいいんだけど…」 静かな声でルールーが返した。 突然、それまで黙って座っていたティーダは立ち上がった。誰かに名を呼ばれたような気がしたのだ。 −でも、誰が?どこから? きょろきょろと辺りを見回す少年に、銀のたてがみを持つ獣人が一点を指差した。 「キマリには聞こえない。お前には聞こえた。お前を呼ぶ者がいる。」 指差す先は、祈り子の間へ続く扉。 「ユウナ!」 階段を一足飛びに駆け上がって入り口へ走り寄ると、扉はまるで彼をいざなうかのように開放された。薄絹のような内扉が開くのももどかしく走りこむ。 加勢しようと後を追ったガード達の鼻先で、扉は重々しく閉じた。 祈りの歌が奔流のように押し寄せ、まるで思考を蹂躙するかのように耳を打つ。勢い余ってたたらを踏んだティーダは、その光景を見て息を飲んだ。 足元には背に翼を広げた祈り子像。大きなスフィアがはめこまれた滑らかな床の上に、召喚士の少女は倒れ伏していた。見上げれば宙に祈り子の姿が浮かんでいる。駆け寄ってその胸に少女を抱きかかえ、声を限りに叫ぶ。 「あんたの仕業かよ!一体どういうつもりで!?」 ややあって女の声が彼の心に直接語りかけた。 …そうではない、夢の子よ…。 あまりに深く静かな、哀しみに満ちた響きに、少年は激情を忘れて耳を傾けた。 …私達が拒んだのではない。その娘は夢の終わる時を恐れている。 腕の中の小さな肩が微かに上下する。意識を取り戻したのだ。二人に向かって、祈り子は高みからその両手を差し伸べた。その途端、バチッという音と共に弾かれたような衝撃が両者の間に走る。ティーダは、ユウナを抱いたまま後ろへ倒れこみそうになるのを、すんでのところで踏みとどまった。 「何だよ、今の。」 祈り子の姿が、すうっと闇に融けていく。 「…私、怖いの。」 召喚士の少女が、喘ぐように小さな声を絞り出した。パーカーの襟元を握り締めた桜色の爪が、小さく震えている。 「祈り子様と心を通わせるのが怖い。」 二人には、同じものが見えていた。けれども互いに口に出すことはできない、打ち消しようのない事実。 それは回避することのかなわない、残酷な結末。 「祈り子様は、キミをどこへ連れて行こうとしているの?…」 言いすがる少女に、少年は返す言葉を持たなかった。ただ愛しさにかられて少女の背をかき抱き、柔らかな髪に頬をうずめた。 長く狂おしい抱擁の後、深呼吸をひとつして、ティーダはささやきかけた。 「あのさ、ユウナ。」 はにかんだように笑いかける少年のまなざしは、張り裂けんばかりに乱れたユウナの心を温かく包み込んだ。 「オレ、行くから。」 いつものように、遠征に出掛けるかのような調子で、彼はそれを口にした。 少女はビクッと身を震わせた。 もうキミは決めてしまったんだね。夢の終わりへと駆け抜ける覚悟を。絶望でも、諦めでもなく、それがキミの物語… 「私も、行くよ。」 言葉は、自然と口からこぼれ出た。 それならば、私もキミの優しさを受け入れよう。もう立ち止まったりしない。スピラに、ジェクトさんに、そして祈り子様に安息の日を返すまで。 迷いを乗り越えてしまえば、召喚士の決意はいっそう固かった。 深々と腰を折ってから、ユウナは祈り子像の前に膝まづいた。幾ばくかの時間をかけて祈りを捧げた末、彼女は祈り子との交流を取り戻した。密かに心配しながら見守っていたティーダが、拍子抜けするほどあっさりと。 スカートの裾を気にしながら立ち上がるユウナに手を貸すと、ティーダは天井に向かって陽気な声を放った。 「そういう訳だから、これからもよろしく!」 答える代わり、祈り子は彼を呼んだ。 …夢の子よ。 さも心外だといった様子で少年は片眉を跳ね上げた。 「その、夢の子っつーの、やめてもらえないッスか?」 宙に浮かぶ姿が、フッと笑んだように見えた。 …では、日輪の子よ。 譲歩する気になったのか、諦めたのか、少年はそれ以上訂正しなかった。祈り子は語った。 …急ぐがいい。お前の父親に残された時間は少ない。 「…うっす!」 込めた気合も充分に、彼は胸の前で拳を握って見せた。 白い砂浜の向こうには、青い宝石を敷き詰めたような海がどこまでも広がっている。歓声を上げながら、ティーダはエメラルドグリーンの水に飛び込んだ。水飛沫が跳ね上がり、紺碧の空へきらきらと舞い散る。まるで飛魚のようにジャンプして泳ぐかと思えば、ゆったりと波に身を任せる彼。その姿を、ユウナはしっかりと胸に刻んだ。 ひとしきり水と戯れた後、少年は爽快な表情で砂浜へと上がった。さんさんと照りつける太陽の光が、濡れそぼった金の髪を透かしてきらめく。水滴のしたたり落ちる前髪を煩わしげにかき上げると、ティーダはユウナの隣に、すとんと座り込んだ。 「回遊魚って知ってる?」 唐突な問いに、ユウナは戸惑いながら小首を傾げた。 「あちこちの海を旅して、また故郷に帰ってくる魚達のこと。」 ビサイドの海は今日も穏やかで、透明な波が幾重にも寄せては返していく。 「この海を覚えておきたいんだ。」 少年は、海と緑なす大地の瞳に向かって微笑みかけた。 「いつか、ここへ還ってこられるように。」 少女も夏空の色をした瞳に微笑み返す。二人の視線が柔らかく絡み合い、その距離を縮めようとした時、 「おーい!続きは人のいないところでやれやー!」 ワッカのどら声が岩壁の上から降ってきた。見上げれば、仲間たちが雁首を揃えてにやにやしながら見下ろしている。二人は顔を見合わせると、ぷうっと吹き出した。 「何だよ!せっかくいいとこだったのに!」 開き直った後輩への報いは、元オーラカ主将によるタックルだった。さしものエースも彼のマークをかわすのは容易ではなく、ティーダのギブアップで教育的指導の場面は幕を引いた。 仲間と笑い交わしながら、ユウナはもう一度振り向いた。眼前に広がる故郷ビサイドの海を。 千年の夢想にたゆたいながら、祈り子は運命の糸を紡ぐ。 終わらない夢などありはしない。そして日輪の昇らない朝もまたないのだと。 -FIN- |