それは、彼の言葉を残酷だと感じた、初めての瞬間だった。


 愛に殉じることはできますか。
 愛に生きることはできますか。










’CAUSE I LOVE YOU












「そろそろだね。」
 壁の時計をちらりと見上げてから、ユウナはベッドの方に向き直った。色違いの瞳が見つめる先には、小麦色の肌と太陽の色をした髪を持つ恋人の姿。病を得て、今の彼はベッドの住人だった。彼女の視線に気付くと、きまり悪そうに天井を見上げ目を合わそうとしない。常ならば生気に溢れ闊達な表情も、霞がかかったようにぼんやり潤んでいた。
 

 その日の午後、浜辺での練習中にティーダは珍しく音を上げ、早々に切り上げて村に戻った。ワッカからの連絡に驚いたユウナは、寺院での務めもそこそこに彼の家へ駆けつけた。
 
 少し触れただけでも、すぐ分かるほどだ。相当高い熱があることは間違いない。
 冷たい水にタオルを浸し、絞る。額にかかった柔らかな金髪を梳き額のタオルを乗せ換えてやりながら、彼女はティーダに話しかけた。
「今度は、ちゃんと見せてね。」
 その声は、心なしか尖ったニュアンスを含んでいた。はい、と手を差し出され、病人はもぞりとシーツから顔を覗かせた。緩慢な動作で脇の体温計を取り出し、渋々手渡す。
 先程熱を測ったときには、彼はろくに見もせずにさっさと水銀柱を下げてしまったのだ。ユウナが何度尋ねても、大したことはなかったと繰り返すばかり。業を煮やした看護人は測り直しを命じたという訳だった。

 ビサイドの夜は今日も静かだった。強烈な太陽が水平線に沈んだ後は、しっとりした夜気が漂い島を包み込む、優しい時間が訪れる。
 いつもと同じに暮れていくはずだった今日という日。奇跡のような再会から始まった幸せな日々に、ようやく実感が湧いてきたところだった。
 輝き続ける太陽のような彼が見せた、突然の不調は何を意味しているのだろう。遠くに潮騒の音を聞きながら、ユウナは訳もなく胸騒ぎを覚えていた。

 受け取った体温計に何気なく視線を落とした途端、ユウナの表情は凍りついた。
 水銀柱の高さは、今まで見たことのない目盛りを指している。
「うそ…40度近い…。」
 落ち着かなくちゃ。そう。こんな時こそ落ち着かなくちゃ…。自分を叱咤するものの、膝が震えて今にも座り込んでしまいそうだった。
 みるみるうちに蒼ざめていくユウナの顔を見ながら、ティーダは小さくため息をついた。だから見せたくなかったんだといわんばかりだった。
「壊れてるんッスよ。それ。」
 明るい調子で言おうとするのは、彼に相当の努力を強いた。しかもその努力は報われたとは言い難かった。肺に充分な息が入ってこない。まるで酸欠状態だった。
 肩で息をしながらなおも軽口をたたく病人を、彼女は震える声で制した。
「ルールーに、熱冷ましの薬湯をもう一種類もらって来るね。」




 本当は彼の傍から離れたくなかった。目を離した瞬間、儚く消えてしまうのではないかという不安がユウナの思考を支配していたのだ。事情を知らない者ならば、馬鹿げていると一笑に付すだろう。
 尖った月が心細げに光る夜だった。星明りが漆黒の空に滲むように広がっている。薬湯を入れた小瓶を胸に抱き、もつれる足ももどかしく彼女は彼の部屋へと駆け戻った。



 そっと部屋のドアを開けると、ベッドの中のティーダは頭を僅かにめぐらした。
「水、欲しい…」
 かさかさに乾いてしまった唇から漏れた声は、掠れて切れ切れだった。
 今しがたもらってきた薬湯をグラスに注ぐと、ユウナはそれを彼の口元まで運んだ。枕に背をもたせかけ、一口、二口飲み下すのさえ苦しげな様子なのを、はらはらしながら見守る。

 空のグラスを受け取ると、ユウナはそっと彼の顔を覗き込んだ。碧天を思わす瞳は熱のために潤んで、不安に揺れる自分の姿を小さく映し出した。
 締め付けられるような胸苦しさを覚えながら、彼女はセピアの髪を震わせた。

 このまま彼が、また、手の届かない所へ行ってしまったら……

「いやだよ。」
 震える声が、白い喉から絞り出された。
「もう、どこにも行かないで。一人にしないで。」
 一度堰を切った想いは、もう留まるところを知らずに溢れるばかりだった。

 ひたむきな眼差しは狂気さえはらんで、ただ真っ直ぐに彼を捉えた。
「今度は、私もついて行くよ。」

 ティーダはふわりと微笑んだ。眼差しが、透明な水をたたえた泉のように揺れる。

 そして彼は静かに宣告した。
「それは、できないッス。」
 やんわりと、でも明確な拒絶。雷に打たれたような衝撃が走り抜け、悔しさと絶望にユウナは瞼の奥が紅くかすむのを感じた。

「もちろんオレより先にスピラからいなくなっちゃダメだし…。」

 深く愛するがゆえ、優しさゆえに生まれる残酷な言葉。

「もし、オレが先にスピラからいなくなっても、ユウナにはずっと生きていて欲しい。」
 悲しくても、生きます。――かつてまやかしの希望に惑わされることなく生き続ける道を選択した少女は、張り裂けそうな胸の内にしばし言葉を失った。
 はにかんだような彼の笑顔が涙に霞み、歪んだ。こみ上げるものを抑えきれず、ユウナは火の様に熱を持った胸に顔を埋めた。捕まえる。離したくない。二度とこの腕をすり抜けることのないように。

 胸の上で突っ伏したまま泣きじゃくるユウナ。さらさらと流れる髪を撫でながら、ティーダはあやすように繰り返した。
「大丈夫。それは今じゃないって。」
 随分落ち着いてきたものの、まだ震えたままの小さな背中をぽんぽんと叩く。
「今から50年以上先の話をしても、しょうがないだろ?」
 やっと顔をあげたユウナの目は、泣き腫らしてまるで紅をさしたようだった。手を伸ばし、桜色の頬に残った涙の跡を指で拭ってやると、彼は片目をつぶって見せた。いつものキレと鮮やかさにはほど遠かったけれど、体調を考えれば上出来だったといえるだろう。
「この話の続きは、じいさんばあさんになってからしよう。」
 ティーダの言わんとするところを飲み込んで、ようやく花のような笑顔がこぼれた。
「そうだね。50年後に話し合おうね。」
 約束の指きりの代わりに、ユウナはもう一度愛しい人の胸に顔を埋めた。
 熱を持った身体に、彼女の頬は少しひんやりと優しい重みを伝えた。ティーダの胸に言い知れないほどの愛しさがこみ上げた。
 この華奢な背中をかき抱いて、白い肌に思いのたけを全て刻み付けたいのに。不甲斐ない自分の四肢に一抹のじれったさを覚えながら、彼はユウナの頬を両手で挟み込むと仰向かせた。視線を絡め笑み交わす。
 穏やかな中に熱情も激しさも全て溶かし込んで。深く深く、互いの想いを乗せて口づける。
 誓いを、託して。





 木々を飛び交う小鳥達の声に、ユウナは目を覚ました。はっと気付いて頭を起こす。
 窓辺がオレンジ色のグラデーションに染められている。もうすぐ朝日が昇る時間だった。

 ベッドの中で、ティーダは眠っていた。未明の薄暗さの中で、彼の髪は青白く透けて見えた。
 
 もし、この手が彼をすり抜けてしまったら―――。
 頭を振って恐ろしい考えを追い出すと、ユウナはそっと手を伸ばした。震える指先を柔らかな跳ねっ毛がくすぐった。
 指先から体中に安堵感が広がって、ユウナは泣きたくなるほどの嬉しさを噛み締めた。心がまるで浮力を得たみたいに、ふわふわと軽くなったように感じる。
 額に触れてみると、もう熱は下がっているようだった。
 額から鼻梁をたどって、息を確かめた。最初に知った時には驚いたほどの、常の彼がする深く静かな呼吸を繰り返していた。苦しげな様子は消え、すっかりいつもの営みを取り戻している。
「…んー…。」
 眠ったままのティーダは僅かに眉をしかめた。安眠を邪魔しないように、彼女は慌てて手を引っ込めた。
 安心した途端、眠気と疲れがどっと押し寄せた。けれども不思議と気分は清々しい。カーテンの向こう、窓の外に広がりつつあるビサイド特有の青天井のように。
 健やかさを取り戻した彼の寝顔を見つめながら、ユウナは夢見心地で囁いた。
「キミの我侭、聞いてあげる。だから50年後も100年後も一緒にいようね。」

-FIN-

                     [Back]