蒼穹を渡る月が、島特有の簡素な屋根越しに浮かんで見える午後。
 暇つぶし代わりに、リビングで片腕立て伏せを始めたティーダは、50回にあといくらか届かないところで床に突っ伏してしまった。
 窓辺に垂らした布越しには、照りつける陽射しの破片が遊び、午後の熱気が室内に入り込んでくる。普段はもう少し乾いて肌に馴染むはずの島の大気は、明け方降った雨のせいで随分と湿り気を帯び、熱をこもらせていた。


 昼月



「…暑い」
 フローリングと呼ぶには素朴過ぎる板張りに汗の浮いた頬を押し付けたまま、彼はもう一度唸った。
「あっつーい…」
 磨きこまれ木目の浮いた床は、滑らかで少しひんやりとしていて心地いい。
 押し付けた耳に優しい振動が聞こえて、彼は柔らかな足音の源へ顔を向けた。ユウナの白いふくらはぎが視界に映った。
「今から泳ぎに行こっか」
 いそいそと頭を起こしたティーダに、ユウナはちょっと困ったように微笑んだ。
 こんな日は、水が恋しくなる。恋人の提案は、随分と魅力的だった。ただしそれを実行に移せるのは、目の前の家事を終えてからだ。でないと、後々の予定に差し障る。
「片づけが終わったらね。ところでこれ、もうそろそろ処分してもいいかな?」
 かがんだ彼女が指し示したのは、本棚の最下段を占拠するおびただしい数の雑誌。
 大召喚士として、スフィアハンターとして活躍してきたユウナは今もスピラ中の耳目を集める存在であり、ことに女性から絶大な憧憬を受けている。そのために老若男女向けを問わず、あらゆるジャンルの雑誌から取材を申し込まれることになり、そして記事が掲載されるたびに、その分だけ彼のコレクションも増えるというわけだった。
「どれも捨てられないッスよ。そこにあるの全部、ユウナのこと載ってるから」
 床の上に頬杖をつき長々と伸びたまま、彼はさも当然という風に答えた。
「うーん、でももう棚がいっぱいだよ?せめて欲しいページだけ切り取って、とっておいたらどうかな」
 ユウナがやんわりと切り返す。この調子で所蔵を続けたら、棚がいくらあっても足りない。
 お気に入りの記事を全てとっておきたい気持ちは分かる。なぜなら自分もそうだから。 スフィアカメラが切り取るゴールの瞬間。もぎ取った1点に酔う無我の表情。インタビューに答える言葉のひとつひとつ。そこには自分の知らない彼の一面が垣間見える。
 実のところ、人気選手として現役で活躍し、ブリッツ界のレコードを日々塗り替える彼の記事は、雑誌に載る回数も割かれるページ数もユウナを凌いでいる。ユウナが丁寧にスクラップし整理しているお陰で、ブリッツ情報誌を中心とした雑誌が家中に溢れる事態を免れているだけなのだ。
 抜き出した一冊をぱらぱらとめくりながら、彼は頭をかいた。
「そういうの、オレ苦手なんだよな。ユウナがやって」
「ええっ?嫌だよ」
 ユウナは慌てて顔を横に振った。胡坐をかいて座った膝の上、置かれた女性誌の表紙には自分のすまし顔がグラビア印刷されている。
 手を合わせて無邪気にお願いポーズを作る様子は、いっそ罪作りだ。それでもとうてい承諾できない以上、諦めてもらうしかない。
 半ば答えを予想していたのか、ティーダは肩をすくめた。
「やっぱりダメ?でも、その手の作業は好きだろ?」
「そういう問題じゃありません」
 屈託のない風に問いかけを重ねる当の本人は、彼女が拒んだ本当の理由には触れないまま、むしろ困る様を楽しんでいるようにさえ見える。
「だって、わたしの記事をわたしが切り抜いて集めるってことでしょ?そんなの恥ずかしいもの」
 もじもじと両の指を絡める清楚な恋人の告白を、ティーダはもっともらしい表情で頷いて、それから不意に破顔した。
「ユウナらしいな。そういうとこ」
「そう?」
 彼女は、用心深く返事をしながら、天真爛漫の見本みたいな笑顔をそっとうかがった。素直に引き下がることを想像、というより期待していたのだけれど、見通しがかなり甘かったことを、彼女は次の一言で思い知らされることになる。
「じゃ、恥ずかしいことするのと、恥ずかしいことされるの、どっちがいい?」
 無邪気を装って尋ねる恋人の、何て嬉しそうなこと。
 小面憎いほどに楽しげな様子で理不尽な二者択一を迫る、濡れたようなトーンの囁き声は、悪魔も裸足で逃げ出さんばかりに魅力的。
「どっ…!どっちも却下です!さあ、片づけしなくちゃ…」
「後で一緒にやろう」
 言う傍から、彼はいつの間にかユウナの肩を抱き、日に焼けた頬を子猫が甘えるような仕草で摺り寄せた。
「泳ぎに行くんじゃなかったの」
「明日にしよう」
 退路を絶たれ、それでも抵抗を試みた彼女の涙ぐましい努力を、首筋へと伸びてきた悪戯な指先が、あっさりとねじ伏せる。
 これだからこの人は油断がならなくて困る。でも一番困るのは、それを拒む強い理由が自分の中に見当たらないことだ。
 うなじの弱い部分を撫で上げられて、ユウナの口許から、甘ったるい響きを帯びたため息が洩れ、それが彼女の体温を余計に上げた。
「お日様が、まだあんなに高い…」
「でも、月がもう出てる」
 ほら、と彼の指差す先、日除けの隙間から若月が覗いている。
 眩しい青の瞳から逃げるように、ユウナは所在無げに視線を彷徨わせた。やんわりとつかまれた手首に、目を落とす。繋がる部分から、疼きに似た彼の熱が伝わってくる。
 どうしようもなく愛しくてたまらない気持ちは、お互いきっと同じ。
 求める想いは、幾度重ね合わせるとも決して飽くことなく、むしろ心通うほど無限に深さを増し、膨らんでいく。強く純粋な熱情の前には、理性など嵐にもまれる小舟のように無力だ。
 僅かなおののきを感じながらも、それは確かに例えようもなく幸せな瞬間で、待ち望んでいたものを彼と二人で分け合う一刻でもあった。
「待って。シャワーを」
「ちょうどよかった。一緒に入ろう」
 なおも物言いたげな恋人の唇を、ティーダは軽いキスで封じ、その華奢な身体を抱き上げた。腕の中で恥ずかしげに身を縮めてしまった可愛い人に
「今日は、ほんっと暑いもんな」
と、蕩けそうな笑顔のおまけ付きで。

 少しだけ重い過去を乗り越えて、けれども少しも特別でない二人。繋ぐ絆は、愛という名の命の営みそのもの。
 象牙のように優美な月が、天の主に照らされ、なまめかしい輝きをたたえて中空に浮かんでいた。





-FIN-
 
 2007年10月15日〜10月末日まで開催されたWebアンソロジー企画「リンク」に提出した作品です。
 甘いものを目指すと何だか変な方向に走っ…言い訳しても、もう毎度のことなので、諦めて今後もこのまま突っ走ろうと思います。(笑)
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