暁の太陽が水平線を切り裂いて、世界を生まれたての光で染めていく。
 スピラは今、千年の眠りから覚めようとしていた。




 




 シンを構成していた膨大な量の幻光虫は空中に解き放たれ、青く明滅しながら光の泡となって溶けていく。螺旋に囚われ夢を紡ぎ続けてきた人々の魂が召喚士の異界送りによって、今、永遠の安息を得る。



 光舞う空に
 終焉が、始まる。









Pulsation 

Chapter of Yuna 〜空に捧ぐプレリュード〜










 ブリッジは鉛のように重い空気に包まれていた。
 鮮やかなグラデーションを空に描きながら昇っていく朝日。ガラス越しに睨みつけていたシドが、もう一度問いただした。
「で、ヤツはどうしたって聞いてんだがよ。ああ?」
 父親に詰問されたリュックは、いつもはくるくると快活に動く鮮緑色の瞳を潤ませた。
「どうしたって、言われても…。」
 今の彼女には、そこまで言うのが精一杯だった。恐ろしかったのだ。甲板で起こった出来事を事実として受け入れることが。

 信じ難かった。否、信じたくなかったというべきだろう。
 その場にいた誰もが。

 「ザナルカンドへ、帰れたんだったらいいんだけどな…。」
 腕を組んで力なく呟くワッカ。振り向いたルールーは炎のような瞳で彼をねめつけ、唇を噛み締めた。灼熱の言葉を吐きかけようとするのをかろうじてこらえた、そんな仕草だった。
「何だあそりゃあ。それじゃさっぱり分からねえじゃねえか。一体甲板で何があったってんだ?」
 ブリッジ中を揺るがすほどのドラ声は、計器に埋め尽くされた壁に跳ね返って空しく反響した。

 召喚士とガード達が戻ってきた時、アルベドの長シドは、彼らの意気消沈ぶりに驚いた。そして気付いたのだ。黄金色の髪と小麦色の肌を持つ陽気な少年がユウナの傍にいないことに。

ややあって、沈黙は破られた。黒衣の魔導師が美貌を苦渋に歪めつつ、唇の間から言葉を押し出した。常に冷静であろうとする彼女にさえ、突きつけられた現実は受け入れ難いものだった。
「事実だけを言えば、彼は甲板から身を投げました。」
 豪胆で鳴らすアルベドの長が、一瞬色を失ったかに見えた。

 ルールーが甲板の上で起こった出来事を話し終わるのを受けて、シドが腕を組みながら口を開いた。
「それで、ユウナはどうしてる。」
 リュックとワッカが顔を見合わせた。ルールーが小さく息をつき、返答する。
「部屋で休んでいます。あれだけの魂を異界へ送りましたから…。」
 ユウナの消耗は恐らく相当なものだ。それに、今は時間が必要だろう。






 三人はブリッジのドアをくぐるとその足でユウナの個室へ向った。偉業を成し遂げたガード達の周りにはしかし、重い空気がまとわりついて離れないでいた。
 部屋の前には、キマリがドアを守るようにして立っている。駆け寄ったリュックが口を開く前に、ロンゾの青年は黙ったまま首を横に振った。
 誰もが疲労を感じていながらも、誰も自室に戻ろうとはしない。集った誰もがユウナを案じていた。けれどもかけるべき言葉は見つからず、四人はただ沈黙を続けるドアの前で立ち尽くした。



「最後の最後まで黙ってるなんて…。何かさあ、水臭くない?」
 ミーティングルームの片隅で空のカップを弄びながら、リュックはどちらに話しかけるでもなく呟いた。次第に温もりを失っていく滑らかな陶器の感触は、手の中に僅かな重みを落とした。

 勝利の喜びを分かち合うはずだった「仲間」への不満が、少女の口からこぼれ出た。
「仲間…なのにさあ。」 
 アルベド族の自分を、当然のように仲間として扱った彼。生まれて初めてだった。嬉しかった。その彼はなぜ秘密を誰にも話すことなく行ってしまったのだろう。

「あいつさ、意外に気楽に考えてたんじゃないのか?」
 カップを傾けたワッカは残ったコーヒーを飲み干し、顔をしかめた。冷え切ってしまった最後の一口は、その渋みばかりが舌を無遠慮に刺した。
「何とかなるかもしれないし、何ともならなかったら、その時はその時…なんてよお…。」
 二人の視線をまともに浴びて、語尾は次第に小さくなっていった。 またルールーにすごい顔で睨まれるとでも思ったのかもしれない。
 首をすくめ身構える彼の予想とは裏腹に、黒髪の間から覗く瞳は、寂しげな光の中に僅かな肯定を滲ませていた。

「仲間だからこそ、心配を、かけたくなかったのかも…しれないわね。」
 ルールーは、まるで自分自身に言い聞かせるように言葉を区切り、艶やかな唇に乗せた。

 アルベドのホームでユウナの未来を知った時、彼は慟哭した。そしてユウナを死なせないと高らかに宣言した。シンがその破壊力を失いかけ動きを止めたとき、ためらうことなく乗り込もうと叫んだ。
 
 いつだって、真っ先に駆け出した。
 今日の常識を蹴り飛ばすようにして、未来に向って。

 仲間の、スピラの、そして誰よりも大切な人の悲願をかなえるため、彼はどれほどの決意を胸に秘めて決戦にのぞんだのだろう。

「でも、みんなで考えれば何か方法があったかもしれないのに。」
 一つを選び取ってしまえば、無数の選択肢は空しく指の間をすり抜けて霧散していく。可能性という言葉が、今は無力感にさいなまれる人々をさらに打ちのめした。
 
 






 キマリに伴われるようにしてユウナが食堂に姿を現わしたのは、翌日の昼近くだった。
ガード達の説得にも応じず部屋へ閉じこもった状態が丸一日続いた時点で、これ以上食事を拒否するようなら力ずくでドアを破壊してでも…と船長命令が下されたのだった。
「心配かけて、ごめんね。」
 どこか虚ろな眼差し。弱々しく笑いかけるその抜け殻めいた表情に、ルールーの伸ばした指先は凍りついた。まるで見えない障壁が、その手をはねつけたかのようだった。
 謝ってなんか欲しくない。きっと一番辛いのはユウナのはず。
 こんなに近くにいるというのに、何も力になってやれない。悲しみを分かち合おうにも目の前の少女は心を閉ざし、その儚げな身の内に苦しみを全て閉じ込めてしまっている。
 その無力を呪うかのように、豪奢なレースに縁取られた拳がきつく握り締められた。美しく塗られた爪が掌に白く食い込んで震えた。

 操り人形のようなぎこちなさでテーブルへつくと、ユウナはスプーンを取った。湯気の立つポタージュを口に運ぶ。少女の舌を、喉を温め、空っぽの胃に落ちていく滋味はしかし、その温かさを彼女の心まで届けることはできなかった。


「私、どうして彼を行かせてしまったんだろう。」
 抑揚のない、か細い声が桜色の唇から漏れた。
 
 貴方ヲ 失ウクライナラ


 短い沈黙が流れた。
「あれの望んだ道だ。例えユウナでも邪魔はできない。」
 腕を組み、真理を見はるかすような遠い眼差しで、キマリは答えた。

「ティーダは私に未来をくれたのに、私は…。」
 ぽつりとこぼれた言葉は、そこで途切れた。

 千年の夢を断ち切る目覚めの代償。
 夢の終わりへと駆け抜ける少年は、引きとめた腕をすり抜けた。



 夢ヲ見続ケテ イタカッタ


 嘆くばかりでは何も始まらない。頭では分かっていた。皆が心配し、自分を気遣っているのも分かっていた。でも胸が痛くて息ができない。暗闇に押しつぶされ、全ての感覚が麻痺してしまったかのようだった。

 空っぽの心だけが取り残された迷子のように、ただそこに立ち尽くしていた。
 
 教えて欲しい。
 夢見ることは、罪ですか。





 うつむいていた少女は不意に顔を上げ、はんなりと笑んだ。
「ベベルへ行こうと思うんだ。スピラのこれからを相談しなくちゃ。」
 誰からともなく、安堵のため息が漏れた。けれどもそれは早計に過ぎた。部屋の空気が緩んだのもつかの間、耳を疑う言葉にガード達は戦慄を覚え、絶句した。
「全部終わったら、私、祈り子になろうと思うの。」

「ユウナ!自分が何を言っているのか、分かっているの?」
 冷静になれというほうが無理というものだろう。少女の両肩を揺すり黒髪のガードが発した問いは、悲鳴に近かった。
「もちろん、全部終わってからだよ。」
 希望の光を失った色違いの瞳が、弱々しい笑みを浮かべた。
「スピラには、いずれ召喚士がいなくなる。そうしたら異界送りができなくなってしまうから、だから…」
「だからってよぉ!!」
 ユウナの言葉を遮るように、ワッカの大声が重なった。
 
 やりきれない思いを誰もが抱えたまま、絶望という名の激情が生み出す圧倒的な奔流の前にくず折れそうになる。
 彼らの窮地を救ったのは、アルベド出身のガード仲間だった。ニギヤカというより騒々しいというほうが近い声の主は、今しがた手に入れたそれを一刻も早く仲間に見せようと駆けてきたのだった。
 



「ちょっとちょっとちょっと!!!これ見てよぉ!!!」
 金髪を風になびかせ派手な足音と共に廊下を走ってきたリュックは、食堂の入り口前でたたらを踏むと、身を翻して部屋に飛び込んできた。
「あ…ユウナん。」
 ガード仲間の向こうにユウナが座っているのを目にして、従妹の少女はごくりとつばを飲み込んだ。
「一体どうしたの?」
 ルールーに促されたリュックは、ほんの少しためらいを見せてから、
「ついさっきリンさんから受け取ったんだ。」
 手に持っていた映像スフィアをテーブルの上に置いた。
「…あいつの忘れ物だって。」
 ユウナの細い肩がぴくりと震えた。
 驚きに目を見開く仲間たちに向って、彼女は事の経緯を説明し始めた。リンの経営する旅行公司にユウナ一行が泊まった翌日、彼の部屋のゴミ箱から見つかったものだという。
「何が映っているのかは、まだ確かめてなくってぇ…ホントに何にも映ってないただのゴミかもしれないし…」
 ユウナに見せる前にスフィアの中身を確かめておくつもりだった。予定が狂ったことを、リュックは少しだけ後悔した。けれども、もう後にはひけない。
「ユウナんが、確かめてみて。」
 食器を脇へよけ、そっとスフィアを彼女の前に押しやった。何に対してかは分からないまま、祈るような気持ちで。
 小さく震える白い指先が、そっとスイッチにかかった。滑らかな半球に小さな光が灯る。次の瞬間
「…んて顔してんだよ。バーカ!」
 唐突に流れた音声。息を呑んで見つめていた面々は一瞬固まった。スフィアの中では、踊るような金の髪が小さく光を跳ね返し、泣き笑いのような表情をした少年の顔を縁取っている。日に焼けた腕がこちらへ向って伸ばされた。次の瞬間くるくると目まぐるしく室内が映し出された後、小さな衝撃音と共に映像は途切れた。
「バカとは何よ。も〜お失礼しちゃうな〜〜。」
 真っ先に素っ頓狂な声を上げたのは、ユウナに頬をくっつけるようにして覗き込んでいたリュックだった。明朗快活が身上のこの少女は、いつも自分がきっかけを作ることで、どんな辛い時にも笑顔を呼び戻すよう務めてきた。
 その気遣いに乗じ、ルールーも自分のペースを取り戻して口の端に笑みを乗せた。
「言ってる本人も、何て顔かしらね。」
 スフィアに視線を注いだまま、ユウナは呟いた。
「私、何て顔…。」







「何て顔してるんッスか。」
 心配半分、からかい半分といった調子で、新米ガードは召喚士の顔を覗き込んだ。不意に顔を近づけられて、ユウナは思わず頬を染めた。
 スタジアム控え室の通路。壁に背を預け、彼は肩を揺らして小さく笑った。試合前、ましてや怪我を抱えたコンディションとはおよそ思えないような余裕ぶりだ。
「だって…本当にその身体で試合に出るの?」
 ルカ入りする直前の戦闘で対峙した魔物の攻撃を受け流しきれず、ティーダは運の悪いことに負傷してしまった。癒しの魔法も全能ではなく、利き腕の肘には生々しい傷跡が走っている。
 ひょいと肩をすくめると、彼はひらひらと右手を振って見せた。
「後は、つば付けときゃ治るッス。」
 つられて微笑しかけたものの、彼女の表情はまだ硬い。短い沈黙が支配する中、二人の足元に落ちた光の帯が緩やかにうねり、青い影を揺らめかせる。
「勝つために絶対忘れちゃいけないことが、三つあるんだ。」
 深く息を吸い込んだその顔が、挑戦者のそれになる。幾多の栄光を手にしてきた揺ぎ無い確信を浮かべ、勝利を見据えた空色の瞳が何よりも雄弁に物語る。
「信じること。逃げないこと。」
 口元に宿る不敵な笑みが、女神さえ振り向かせ、引き寄せる。美しく獰猛な獣が彼の内に目覚める瞬間を目の当たりにして、少女は軽い酩酊感さえ覚えた。
「そして、諦めないこと。」
 陽気な語り口に潜む、比類のない勝利への執念。その闘争心は炎より熱く氷の刃より鋭い。
 試合開始五分前を告げるブザーが、水を走り抜けスタジアムを震わせた。
 彼のために用意されたステージが、今こそ始まる。

 鮮やかな笑顔を少女の目に焼き付けて、エースはゲートをくぐった。 
「だからユウナも、オレを信じるッスよ。」
 






「本当に私ったらなんて顔してるんだろう。」
 顔を上げなくちゃ。
 キミがくれた大切なものを見失わないように。

「なあ、ユウナ。」
 ワッカが椅子に座りなおし、深呼吸をひとつして話しはじめた。
「あいつはな、体張って好きな女の命守ったんだ。後悔なんざしてないだろうし、」
 ユウナはもう、うつむかなかった。一言、一言を胸に刻みつけるように頷きながら受け止めた。
「ユウナがスピラのために祈り子になるのを、あいつは喜ぶと思うか?」
 小さく息をついで、男は声に力をこめた。
「俺たちが精一杯生き続けてよぉ、あいつの心意気に応えてやらにゃ。」

 大きく頷いたユウナの両目から、光るものが零れ落ちた。頬を濡らし、伝っていく涙の温かさが、生きている証のようでなぜかひどく心地いい。
 しゃくりあげる肩に、従妹の少女がそっと腕をまわした。振り向きざま小さな肩口に顔を埋め、セピアの髪を震わせて、彼女はひとしきり声を上げて泣いた。


 






 

 スピラに新しい時代を開くため、飛空挺は今、発進しようとしていた。
 
「ちっとばかし、きついこと言っちまったかな。」
心持ち後悔をしている風なワッカに、ルールーは僅かに笑み返した。
「あんたが言ってなかったら、私が言ってたわ。」
 ブリッジを出て、長い廊下を展望室へ向う。
「何だか安心したわ。あの子が自分のために涙を流すのは何年振りかしら。」
 ユウナは他人の悲しみに敏感な分、いつのまにか自分自身の悲しみを外に出さなくなった。兄弟同然に育ち一番近しい存在だったはずの彼らでさえ、召喚士として当たり前のことだと、いつしかそれを疑問に思わなくなっていた。

 スピラの誰もが気付かなかったユウナ自身を見つけ出し、解き放ったのは彼。
 
「存分に泣いたらいいわ。悲しみを癒すには、とことん向き合うしかないもの。」
 ルールーは半ば独り言のように呟いた。
 お前もそうしてきたのか?と尋ねようとしたワッカは、思い直して口をつぐんだ。そんなつまらない問いは間違いなく、この炎のように激しく美しい女を怒らせるだろう。
 しばらく黙って、二人は同じ風景を見つめていた。

ややあって男が口にした言葉は、女にとって思いもかけないものだった。
「なあ、ルー。一緒にならないか?」
 結い上げた髪に飾られたかんざしがちり、と音を立てた。
「何よ。急に。」
 急に温度を下げた眼差しにひるまず、ワッカはありったけの勇気を総動員して続けた。
「急じゃねえぞ。シンを倒したら…って、最近ずっと考えてたんだ。」
 旅の間、俺も色々と考える所があってな。と言いつつ視線をそらして頭をかいている。この期に及んで今ひとつ踏み込み加減の足りない幼なじみを、彼女は少し呆れた風にちらりと見やった。 
「あたしは今のところ誰とも結婚する気はないわ。でも。」
 言葉とは裏腹に、黒尽くめの魔女の声はどこか暖かく響く。
「気が変わった時には…、あんたとするわ。」



 窓の外、現れては飛び去る地上の風景を、ユウナは愛しげに眺めていた。
 スピラに住む全ての人々と、仲間と、そして彼と共に勝ち得たこの世界。限りなく広がる空に比べれば、人の営みは何とささやかなのだろう。それでもその一人一人に物語があり、これからも絶えることなく続いていくのだ。

 指笛の音を道標に、たった一つの約束を胸に刻みつけよう。
 今は不確かでもいい。
 無限の可能性は、いつだって目の前に広がっている。
 そして、それを選び取るのは自分。

 もう逃げたりしない。そして振り返るのはよそう。
 キミは言ったね。
 夢はかなえるためにあるのだと。

 信じるよ。
 きっといつか、また会える。


 諦めないよ。
 物語を、ここより再び始めよう。



-FIN-
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