願い


───すべては夢。瞬きひとつの間。


 視線を感じた。
 ティーダは弾かれたように天井を振り仰いだ。
 ここは自宅のリビングだ。今台所にいる、もうひとりの気配とは明らかに違っていた。 
 目に入ったのは、見慣れた建材の質感と照明の光。少年はぶるっと体を震わせ、小さなくしゃみをひとつした。

 小さい頃から、他人の視線には慣れている。強面な後見人のおかげで、今は不躾なマスコミはじめ野次馬めいた世間の目を遠ざけているが、大嫌いな父親が生きていた頃から今までずっと、衆人環視のなかに身を置いてきた。
 そんなものとは次元の違う何かを、時折、多くは一人でいるときに感じることがある。
 視線の気配に思わず振り向くが、誰もいない。或いは小さな影法師を視界の隅に認めたこともある。
 気配の持つ無遠慮な親しさが、得体の知れないものへの恐怖を和らげていたが、それでも気分が良くはない。

 キッチンから、アーロンが顔を覗かせた。 
「一そしり、二笑い、三惚れ四風邪と言うが、心当たりはあるのか」
 スフィアテレビの音が流れる中で聞き分けたとは、随分と耳のいいことだ。
「別にないって」
 少年の即答を、男は鼻で笑った。
 答えるタイミングが早過ぎたと、彼は内心で臍をかんだ。
 ザナルカンドエイブスの伝説的エースが遺した息子。そんな肩書きを持つ子どもに集まる関心は純粋な好意に基づくものより、むしろ対極にあるものから来ることが多い。
 見透かされたようで面白くなくて、少年はテレビのボリュームを上げた。
 さっきのくしゃみが呼び水になったのか、鼻の奥がむず痒い。
 ティーダの、ささやかだが真剣な努力は残念ながら実を結ばなかった。手で覆った彼の口許から、派手なくしゃみが三回立て続けに飛び出した。

 リビングへ入ってきたアーロンは、トレイをテーブルに置き、ティーダの隣にどっかと腰を下ろした。
 陶製のタンブラーが二つ並ぶうちのひとつに、手を伸ばす。
 無骨な指が握った器には、既に飲み物がなみなみと注がれ、湯気を立てていた。
「熱いから気をつけろ」
 目の前につき出された陶器を、少年はおっかなびっくりで受け取った。滑らかな表面から、じんわりと熱が伝わってくる。湯気に顔を近づけると、生姜と蜂蜜の合わさった甘い香りがした。
「熱が出てから看病するのは面倒なんでな、飲んでおけ」
 言い方はぶっきらぼうだったが、サングラス越しの眼光は温かい。それだから、幼い少年も、不器用な男の不器用な優しさを素直に受け取ることができた。
「三回って風邪じゃないし」
 ティーダがぼそりとつぶやくと、男は頬を僅かに引き歪めた。顔に奔る大きな傷跡も、見慣れればどうということはない。最初はただ、薄気味悪さと恐ろしさしか感じなかったが。
「先のと合わせて四回だ」
「何その計算方法、聞いたことないよ」
 子供だましの屁理屈に憎まれ口で返しながらも、ティーダは素直に生姜湯を一口すすった。
 爽やかに舌を刺す香味と、濃厚な甘さが口に広がった。
 いたわられると照れくさい。子ども扱いされるとくすぐったい。でも、こういう時間は嫌いじゃない。
「…あま……」
 呟く少年を尻目に、アーロンは自分の器に徳利を傾けた。芳香が立ち昇る。
 ティーダは湯気を透かして、杯をあおる保護者を仰ぎ見た。
 静かな酒もあることを、この男を通して初めて知った。
「生姜は体が温まるな」
 男が、満足そうな息を空中に吐き出した。ティーダは頷くと、手の中で転がしていたタンブラーに目を落とした。
 沈黙に気まずさを感じなくなったのは、いつだったか。忘れてしまうくらい昔のことに感じる。
 今日は、泊まっていくのかな。
 胸に浮かんだ問いかけは、寂しがり屋の少年が抱く小さな願いの裏返し。
 口に出して尋ねてみたことはないし、アーロンがことさらに言及したこともない。ただいつも、穏やかに重ねる酒盃が寡黙な男の答えだった。
 生姜湯を、もうひとくち飲み下す。胸の深い場所に、滋味がしみこんでいくようだった。



*


───夢を終わらせる夢よ。時満つるまで、今少し。

 落日を待ちかねて、眠らない街が真の貌を見せ始める刻。
 降りてくる薄闇の裾を縫い止めるかのように、ネオンのどぎつい原色が輝きだす。
 繁華街に近いこの辺りは、いつも人通りが多い。ここ海の見える公園にも、派手なファッションに身を包んだ若者が、笑いさざめきながら行き交っている。
 その賑やかな雑踏の片隅に、二つの小さな人影があった。
 頭部をフードで覆った子どもは、港に浮かぶボートハウスを見つめていた。そしてその傍らには、髪を二つに結わえた少女が立っていた。
 少女が、小さな背中に話しかけた。
「あまり近付き過ぎるのは、よしなさい。あの男は鋭いわ」
 多様な文化を許容するここザナルカンドにあっても、幼い二人の身なりは少々目立っていた。
 飾り気のない簡素なドレスにサンダル履きという出で立ちの少女は、その顔つきといい容姿といい、いかにも素朴に見える。
 少年と思しき子どもにいたっては裸足だった。むき出しのか細い手足と、上着の背に輝く紋章の荘厳さが、どこかちぐはぐな印象を見る者に与える。そして目深に被った紫色の頭巾が彼の表情を隠し、ただならぬ雰囲気を漂わせていた。
 けれども都会の片隅に佇む、この奇異な二人連れを気に留める者は、誰もいなかった。まるで路傍の石に対するがごとく、目もくれずに通り過ぎていく。
「大体、あの子自身に姿を見せるのだって、あたしは反対よ」
 口を尖らせて言いつのる少女に、少年はくすっと笑って振り返った。
「あの男なら心配ないよ。それに多分もう、悟られてる」
 笑いの形に吊り上がった口角は、そのあどけない姿に不釣合いな老獪さをたたえていた。
「こっちの正体に気付いても、彼は何も言わない。ああしてあの子を見守りながら、待ってるだけさ」
 少年の、フードに覆い隠された感情を読み取りかねて、少女は長い睫毛をしばたたいた。 いつまで?と問う間もなく、澄んだボーイソプラノが、落ち着き払って答えた。
「親友が迎えに来るまで」
 彼は、ゆっくりと言葉を継いだ。
 頭上には、いつしか月が出て、高層ビルの天辺にかかっていた。地上の灯りに霞んで、銀貨のようにぼんやりと光っている。
「彼に任せておけば、安心だね」
 しばらくの間、ビル群に削られた狭い空を眺めていた少年は、視線をボートハウスに戻した。
 あの家では、親子とも年の離れた兄弟ともつかない二人が、ぎこちない団欒の時を過ごしているのだろう。
「あの子にそれほど肩入れするのは何故?憐れんでいるの?それとも何かを期待しているわけ?」
 少女は、挑発的に聞こえるのを承知で言ったが、少年はさして気にする風でもなく切り返した。
「そういえば、従召のあの娘…ユウナって言ったね。元気?」
 問いかけは思わぬもので、少女は肩透かしを食らった格好になった。憮然としながらも答える。
「ええ、おかげ様で。朝夕のおつとめなんか、そりゃもう一生懸命で健気よ。一日中見てても見飽きないわ。それに…血筋なんか当てにならないものだけど、あの娘は別」
 きっといい召喚士になる。そう言い切った少女は、小さくため息をついた。
 お気に入りの小さなあの娘は、才能を余すところ無く開花させ、おそらく旅路の果てにさえ辿り着くだろう。しかしそれは、娘の選んだかけがえのない者ともども、空しい螺旋の糧となることに他ならない。
 もっともこの感情は、遠い昔、人間だった頃の名残が疼くだけなのかもしれないが。
 少女は自分の名前さえ、とうの昔に忘れてしまっている。
 今は、ヴァルファーレと呼ばれし聖なる獣が、彼女の代名詞だ。
 時の流れから切り離されたまま、ぬるま湯のような夢にしがみついている自分が、限りある命の終わりに胸を痛める…そんな憐憫など、ただの偽善だ。螺旋の中核でスピラの命全てを喰らって肥え太るあれを、蔑む資格があろうか。
「でも、大召喚士になったって、また同じことの繰り返し…」
 どれだけの召喚士に力を授け、祭られ崇められても、所詮夢を見るだけの存在に、現実世界を変える力などありはしない。
 だからずっと待っていたのだ。”特別な夢”を。
 彼女の思いに、少年の穏やかな声が重なった。
「そろそろ、終わらせなくちゃいけないんだ。貴女もそう思っているでしょ?」
 胸を衝かれたように、少女は顔を上げた。静かに告げる声音も見目も幼子のものだったが、見かけの裏に備わるは、紛れもなく長の威風。
 彼女は上げかけた言葉を飲み込んだ。本当は最初から分かっていた。
「…僕達を救ってくれるのは、あの子しかいない。多分、最初で最後のチャンスだ」
 少年の静かな声に導かれるように、少女も、海上の家から漏れる灯りを見つめた。暖かい光は視界に柔らかく滲んで、スピラの希望そのものに見えた。

 夢の子よ。廉潔なる魂に守られ、健やかに育つがいい。
 願わくば、幼い眠りが、今日も安らかであるように。


[FIN]
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EB2010-2011板の6月お題【ザナルカンドにて】にちなんで投稿したものに加筆修正を加え、別視点のものをくっつけました、…ら、もはや別物ですね…。(滝汗)
ザナルカンドは北方に位置してるので、夏近くなっても、結構寒い日もある…だろうか。どうだろうか。でもティーダ軽装だし、ジェクトにいたっては半裸ですね。
生姜は年中美味しいと思います←

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