目にしみるような青。
 明け方に来襲したスコールの名残は、空のどこを探しても見つからない。今朝もビサイドの太陽は上機嫌で、熱帯性の気候をもつこの島に溢れんばかりの光を注いでいる。
 
 海へと続く道をユウナは歩いていた。うつむき加減に、唇を引き結んだまま。少々ぬかるんだ道を、水溜りをよけながら歩を進める。

 とうとうと流れ落ちる滝の間をくぐり、橋を渡る。水飛沫の端に小さな虹がかかり、ひんやりした空気が森の道を急ぐ娘の頬をなでていった。

 水溜りに映るのは、いつもと変わらない真っ青な空。表面にさざなみが揺れるたび、太陽の光をきらきらと跳ね飛ばす。けれども今は、水晶を織り上げたような水の輝きも雨に浄化された清涼な大気も、重く塞いだ彼女の心を紛らす材料にはならなかった。
 ユウナがその美しい細面を常ならない表情に曇らせているのには、もちろん理由がある。

 事実はいつでも単純明快。
 原因はいつでも複雑怪奇。

 例えば夜の天蓋に縫いとめられた二つの星。自分から見れば親指と人差し指の間に収まってしまう近さでも、実際には何万光年と離れているかもしれない。
 例えば彼の不可解な態度は、一体いかなる意図に近くて遠いのだろう。

 今の彼は、何て近くて遠い所にいるんだろう…。
 



DISTANCE







「彼を怒らせちゃったみたいなの。」
 ビサイド織の伝統色でまとめられた居心地のよいキッチン。ルールーに勧められた薄桃色のお茶に視線を落としながら、オッドアイの乙女は半ば独り言のようにつぶやいた。
「…あの子を?」
 問いに言葉が返る代わり、桜桃のように艶やかで瑞々しい唇から五度目のため息が漏れた。
 今は母となった黒魔導師に「あの子」呼ばわりされた人物は、永遠のナギ節の始まりと共に行方不明となり、つい二十日ほど前に生還をとげた男のことを指している。

 彼が空に溶けたあの日以来、ユウナはその姿を片時も忘れることなく探し続けた。時にはスピラ中を巡り、時にはただじっと耐え忍んで時間の満ちるのを待った。
 不思議な力に導かれ、果たして彼は海に還って来た。

 奇跡のような再会から、今日でちょうど二十日目になる。
 一時大騒ぎに見舞われたビサイド島は、ようやく静かな日常を取り戻しつつあった。人々の不安の種だった一件を大召喚士ユウナはまたも消して見せてくれた。半年ほど前から続いた不可解な現象は、シンの再来でも新たな厄災でもなかった。民は安堵し、彼女の名をこぞって称えた。

 ティーダがビサイドに現れてからこちら、離れ離れでいた分の時間を取り戻すかのように二人は共に過ごした。様々なグループの思惑や寺院の小言など、ティーダは意に介さなかった。正直な所、体裁を気にして自分を曲げるのが何よりも嫌いな人間なのだ。さすがにユウナの立場というものを重んじる分別はあったから、ワッカやユウナの申し出を謝絶して元討伐隊の宿舎に寝泊りし、他人の前であからさまな言動は控えていたけれど。
「寺院の部屋じゃ肩がこりそうだし、ワッカんとこはおチビさんがいて大変そうだからな。」
 そう言って白い歯を見せた彼。自分の立場を気遣ってくれながらも、ちょっとした仕草の一つ一つに言葉にならないメッセージがこもっているのを感じる。それが余計胸に温かく沁みて、ユウナは共にある幸せを噛み締めていた。

 一日千秋の思いで待ち続けた、穏やかな日常の共有。
 二人を引き離すもの、脅かすものはもう何処にも存在しない。…はずだった。

「お昼を一緒に食べた時までは変わりなかったのにな。」
 
 西の空が暖かな光で塗りつぶされ、空に一番星が輝く頃、思いつめたような顔をして尋ねてきたユウナ。
 母となり忙しさを増したルールーではあったけれど、彼女の前で閉ざす扉を持つはずもない。招き入れると、早速ご自慢のハーブティーを入れる。心落ち着く優しい香りが、ほんわりと食堂を満たした。

「ケンカでもしたの?」
 客人にお茶を勧めながら、ルールーは優雅な身のこなしで向かいのスツールに腰掛けた。相変わらず黒を好んでいたけれど、赤ん坊の世話に都合のいいよう肌触りのよい優しい印象のワンピースを身につけている。柔らかな落ち感を持った布地は、品のよい彼女の物腰を一層美しく見せていた。
 心地よいアルトに問われるまま、ユウナは思いつく限りのことを話して聞かせた。
「何だか、様子がおかしいの。物思いに沈んでいる風だったから…。」
 声をかけてみたけれど生返事。尋ねても理由を教えてはくれない。それどころか自分を避けているような節さえある。
 再会してからまだ日が浅いけれども、小さな言い争いならあった。それは互いが互いのことを真剣に考え本音を晒すからこそのぶつかり合いで、他愛のないきっかけで仲直りできた。けれども今回のように一方的に避けられるのでは、その理由が皆目分からない。
「気のせいじゃなくて?」
 向けられた優しい眼差しにすがるようにして、ユウナは溢れ出した感情に突き動かされるまま訴えた。
「もう、ここまで行くと偶然じゃないよ。それに言われちゃったんだ。」
 そこまで言うと、しょんぼりと目を伏せる。長い栗色の睫毛が憂いに沈む二色の宝石に被さった。

  ユウナには関係ないッス。

 その一言は、小さいけれど深く、深くユウナの心に突き刺さった。
 消え入りそうな語尾が僅かに震えを含んで、彼女は声を詰まらせた。スピラの救世主、永遠のナギ節をもたらした大召喚士もこういうところは恋に悩むただの娘だ。
 いつも気丈に振舞い、ともすると頑張りすぎてしまうユウナ。それが、こと彼が絡むと途端に年相応の顔を見せる。そんなところがルールーには微笑ましく、同時に安堵もしていた。
 ありのままのユウナを受け止めること―――至極簡単なことのようでいて、このスピラでそれができる者は、ごく限られている。それを黒髪の元ガードは充分承知していた。
 太陽の申し子を得てからのユウナは、見違えるようではないか。二人の間柄は、もはや自分たちも含めて他人がとやかく言うべきことでもないだろう。
 ポットを取り上げ、お茶のお代わりをついでやりながら頭の片隅でちらりと考える。悩む本人に悪いと思いつつも、微苦笑を誘われてしまう。
「あのお調子者がユウナを怒らせるならともかく、その逆なんてあり得ないわね。」
 黒髪の美女は自分のカップにも薄桃色の液体を注ぎながら請合った。
「心当たりはないんでしょう?だったら放っておきなさい。」
「でも…。」
 左手のブレスレットをいじりながらユウナはつぶやいた。ムーンストーンのチャームが銀の鎖と触れ合って、ごくかすかな音を立てた。ミルクを溶かしたように淡く輝く宝石は、いつか彼がくれたもの。

 本当に月の神秘を宿しているのなら、教えて欲しい。あの人の心の内を。

 六度目のため息が、唇から零れ落ちた。
 心底落ち込んでいるといった風の彼女を励ますように、ルールーは諭した。
「大体、あの子ときたら顔どころか全身に朱書きしてあるようなもんじゃないの。」
 ちらりと顔を上げたユウナの瞳が、美貌の黒魔導師に疑問符を投げかけた。
「ユウナが好きだって。」
 的確だけれども、いささかからかいを含んだ指摘。たちまち白い頬が染まり、彼女は上目遣いに姉代わりの女性を睨んだ。
「あなたらしくしているのが、一番よ。」
 頼もしい先輩はとっておきの微笑を返した。今まで何度この笑顔に助けられ、一歩を踏み出す勇気をもらっただろう、とユウナは考える。ルールーの励ましは、いつでも悩む自分の気持ちを軽くしてくれるのだ。
「ありがとう、ルールー。」

 ワッカとルールーの家を辞して寺院へ戻る途中、意を決してユウナは討伐隊宿舎に立ち寄った。ところが、
「奴なら、飯食った後練習すると言って海へ出かけたよ?」
 夜だからって止めたんだが、奴の腕なら心配はないしな。と付け加えたガッタの言葉は、もはや彼女の耳には届いていなかった。

 とぼとぼと歩を運ぶ寺院への道すがら、ふと見上げれば乳白色の月がユウナの目に留まる。ふっくらと丸みを帯びた天体は自分の腕に絡みついたアクセサリーと同じ色を放っている。
 手を伸ばせば届きそうなのに、触れることのできないもどかしさ。

 ため息と共に涙がこぼれそうになるのを、ユウナはぐっとこらえた。
 信じなくちゃ。
 彼はもう、夢でも幻でもないから。

 そう、確かに帰ってきてくれたのだから。

「明日、オーラカの練習場に行ってみよう。」
 自分で自分に言い聞かせるように声に出すと、彼女は不安な気持ちを振り切るかのように駆け出した。

-to be continue-

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