日没が近付いている。
 人も、ビルも、スタジアムも。巨大な街のどこもかしこも。
 あらゆるものが、赤く染まる時。
 

Over the Sunset


 幼い少年は、駆けて行こうとしたその足をふと止めた。

 視線を、感じた。
 振り向いた先には、誰もいなかった。

 誰も、というのには少し違った。
 猫が。
 ブルーグレーの毛並みは、朱に染まった街の色をはねのけるかのように滑らかに光る。
 妖しく輝く金の目がじっとこちらを見据えている。何もかも見透かすような視線に、心がざわつく。

 自分の周りだけ時が止まってしまったような錯覚。息苦しさを感じるほどの緊張に襲われて、彼は一歩後じさった。

  


 夢の都が見せる幻想は、いつだって優しい。
 全てを知っている。これから起こることの全てを。
 

 今はまだ漂うがいい。目覚めの時がくるその日まで。



 長い尻尾を揺らし、猫はふと琥珀の瞳を細めた。
 ふい、とそっぽを向くと、悠然とビルの間に吸い込まれていく。








 ―――――泣かないで。
 そう、聞こえた気がした。

 
「ティーダ!」
 尖った声が彼を現実に引き戻した。
「何してるの。行くわよ。」
 母親が呼んでいる。我に返り、声のするほうを目で追う。ただ一人愛すべき肉親は、もうこちらには目もくれずに歩き出していた。
 傍らを歩く男の逞しい腕にしがみつくようにして、熱心に何か話しかけている。何か二言三言を返されるたびに、彼女は聞いたこともないような高い声で笑う。

 ザナルカンドエイブスのエース、ジェクト。少年は自分の父親でもあるこの自信過剰な男が嫌いだった。

 英雄に短い休息が訪れるたび、ティーダは独りぼっちになる。
 こんなヤツをちやほやする皆の気が知れない。人を見下してばっかりの、とんでもなくイヤなヤツなのに。
 
 歴戦の証である傷跡が幾つも走る背中を、彼は苦々しげに睨みつけたまま駆け出した。
「大ッキライだ。」


 英雄とその家族は、海の見える公園で歩を止めた。黄昏の風に吹かれて夕陽を見送る人々がエースの姿を見つけて驚きの表情を作る。ただその中に騒ぎ出すものはいない。ワイルドな言動に似合わず実は家族思いの男だというのは、熱烈なファンの間では有名な話だったのだ。公園に居合わせた幸運なファンたちは憧れのブリッツ選手がよこす視線とジェスチャーに頷き、その雄姿を遠巻きに眺めるのみだ。

 憧れと羨望の眼差しが背中に突き刺さる。ファンの熱い視線を傲然と無視するエースの姿を見て、ティーダは憂鬱になる。
「何様のつもりなんだよ。」
 気付くには、少年はまだ幼すぎたのだ。目の前の男が何を守りたかったのか。


「すっげえ色の夕焼けだな。海がまるで燃えているみてえだ。」
 ジェクトは感嘆の声を上げた。
「ほんと、すごいわね。」
 母親がすかさず嬉しそうに相槌をうつ。
 同調するのが何だか業腹で、少年はぎゅっと眉を寄せたまま黙っていた。大体少年の目線からは、美しく輝く海はほとんど見えなかったから。
「何を辛気くせえツラしてやがんだ。ほれ。」
 やおら太い腕が伸び、少年の脇腹をむんずと捕まえた。体が風を切って放り上げられる感覚。抗議する間も無く担ぎ上げられた少年の視界が、くるりと開けた。
 そこは父の肩の上だった。膝小僧の内側に当たった不精髭。くすぐったさに居心地悪さを感じたのは一瞬だった。
「ほらよ特等席だ。感謝しやがれ。」

 顔を上げた少年は息を呑んだ。見慣れているはずの風景が、まるで違って見えた。ここから見える海は、手すりと空に挟まれた細い帯の形をしていた筈だった。
 それがどうだろう。まるで炎のように紅く染まった海は目の前いっぱいに広がり、真紅の太陽を飲み込もうとしていた。海を渡る夕陽の道が金色の帯となって伸び、少年の瞳を射抜いた。

 自分を肩の上に乗せた父の存在は一層大きく逞しく感じられた。鋼のような体を駆け巡る激しさ熱さが、肌を通して直に流れ込むようだった。


 頬が紅潮するのが分かる。
 自分にも流れている。脈々と受け継がれてきた赤い血が。
 血潮そのもののような夕焼けの光に染め抜かれて、同じ熱を自分も感じている。
 
 瞬きをすることも忘れ、ティーダは肩車の上から巨大な太陽を見送った。

 言葉という形にならないまま、不意に気付く。
 ひとりじゃない。
 世界の全てが、僕を守ってる。
 その想いはとめどなく溢れて小さな体をいっぱいに満たした。


 朱に染まった雲が空に薄くたなびく。橙色から紫へと一刻ごとにグラデーションを描いて変わる空の色が、今日という日を厳かに締めくくる。
 
 鼻の奥がツンとした。
 気付かれれば、また嫌味を言われるに決まっている。少年は口をへの字にしたまま拳で両目を擦った。

 人に、空に、海に見守られて、また一つ少年は大きくなる。
 

 宵闇迫る空に浮かぶ大きな雲を、今日最後の陽光が照らす。紫色に縁取られたその形は、彼方へと翔(かけ)る巨大な猫の姿にも似て見えた。
 都市の停滞を打ち壊し、空の向こうへ跳躍するかのように。

 ここにある確かな真実。
 この空の向こうにある確かな真実。




 ―――――泣かないで。
 もう一度、確かに聞こえた。





-FIN-




------------------------------------------------
暗っ!
猫の眼って何もかもお見通しみたいな賢しい感じがしません?
元ネタはもちろん(笑)「地球ネコ」です。
ジェクトがいい父ちゃんしているところを書けてよかったよかった。

ティーダ、悲惨な境遇みたいに自己申告してますけど、その実幼少時代は結構愛情注がれていると思います(笑)
基本的に素直で真っすぐなとこに、育ちのよさが出ちゃってるもんね。

[HOME]