き恩寵・瑠璃の行方


 その日、お尋ね者の一行は僧兵の警戒が厳しいマカラーニャ寺院を避けるようにして、少し離れた旅行公司に宿を取った。リンの息のかかったこの場所なら追っ手の心配もない。その日の夕食は、追われる者の立場をしばし忘れてくつろげる貴重な時間となった。
「お酒って、そんなに美味しいもん?」
 リュックが羨ましそうな顔をして、グラスを口に運ぶルールーを覗き込んだ。
 アーロンが酒をたしなむのはいつものことだけれど、この日はワッカとルールーも葡萄酒の栓を抜いていた。
「この時期ならではの楽しみなのよ。」
 自分の瞳と同じ色をした美酒の味を確かめると、妖艶な黒魔導師は満足げに微笑んだ。それもそのはず、今年の初物を口にする機会に恵まれたのだ。ルカに程近い葡萄酒の名産地から届けられた貴重な一本だ。雨の少なかった今年は、出来が特によかったのだという。
「確かに、これは旨いな。」
 ワッカも一口飲むなり、ルールーに同意する。もっともどの程度分かって言っているのかは不明だったけれど。
「いい香りだね。」
 ユウナが目を細めて呟いた。芳醇な香りがふわりと広がって、卓を囲む者全ての鼻腔をくすぐる。大人達のグラスに満たされた紅い酒は輝くばかりの魅力を放ち、未成年者達をも誘惑した。
「ね〜え。」
 小首を傾げ、両手を合わせてお願いポーズを作ったリュックが、ルールーににじり寄る。それだけで少女の意図を察した彼女は、苦笑しながら一言で却下した。
「子どもはまだだーめ。」
 ぷっと頬を膨らまし一瞬黙ったけれども、好奇心の塊みたいな少女はそこで引き下がるような真似をしなかった。
「ほんのちょっと、味見するだけだから〜〜。」
 その言葉を手始めに、何だかんだとよく分からない理屈を並べ出す。無限に続くかと思われるうるささに閉口したのは隣のワッカだった。根負けして、卓上に伏せられていたグラスに手を伸ばす。
「しゃあないな。ちょっとだけだぞ。」
 大雑把なワッカらしく、彼の「ちょっと」は結構な量だった。勢いよく瓶を傾けた弾みに景気よく注がれてしまったのだ。
「わーい!」
 グラスを受け取ったリュックは、早速ごくりと飲み下した。翠色をした両の瞳が一瞬丸くなり、それから三日月形を描いた。
「ぷはー。」
 グラスを置くと、ニギヤカ担当の陽気な少女は両手を自分の喉に当てた。
「この辺が、ぽやぽやする…。」
 それから、はい、とユウナにグラスを手渡す。一瞬迷ったあと、召喚士の少女は手の中の酒盃へ唇を寄せた。
「美味しい。」
 実は彼女も、どんな味なのか興味しんしんだったのだ。当然といえば当然ながら、熱の出たときに飲まされた薬酒の苦い味くらいしか経験がない。そんなユウナにとって今日の酒は、想像していたものよりもずっと優しく柔らかで、そして塞ぎがちだった気分を解放してくれた。
 繊細なガラス細工の内側に揺れている美しい液体を目をうっとりと眺め、ユウナはもう一口味わった。

 そして彼女はまるで当然のように、隣のティーダにそれを手渡す。
「はい、キミもどうぞ。」
 不意打ちを見舞われて、少年の心拍数は一気に跳ね上がった。とっさになんでもないような顔を作って受け取ったものの、背中には冷や汗が噴き出している。ナギ平原でモルボルに先制攻撃を仕掛けられたときのほうが、よっぽど平常心を保っていられたかもしれない。

…ってことは、これに口をつけろってことッスか!?

 当の本人は、そんなティーダの焦りに気付く様子もなく、にこにこと笑っている。もう眼元をほんのりと染めている所をみると、どうもあまり強くないタチらしい。とはいえ、もう酔ったというほどの量でもないだろう。
 隣のリュックがちらとこっちを横目でうかがって、意味ありげな笑みをよこした。おもしろがるばかりで助けてくれようとはしないガード仲間に舌打ちしつつ、少年は視線を泳がせた。
「キマリは?」
 反対側に座っていた寡黙な戦士へ、苦し紛れに声をかける。話を自分に振られたロンゾの青年は迷惑そうな顔で、
「キマリは酒を好まない。お前が飲め。」
 あっさりと片付けた。

「じゃ、遠慮なく。」
 大体、本人が気にしていないんだから、自分だけ変に意識するのも馬鹿馬鹿しい。そうケリをつけると、ティーダはグラスを口に運んだ。唇に触れたガラスの滑らかさが、何か特別な意味を持っているように思えて、飲んでもいないうちから頬が熱くなった。
 含んだ途端、口いっぱいに広がる葡萄酒の味と香りは、蠱惑的ですらある甘さで舌を痺れさせ、喉に熱を与えながら落ちていった。

「甘いッス…。」

 ユウナを魅了し、ティーダを幻惑させたこの葡萄酒の功罪は、これだけに留まらなかった。波紋は更に広がって二人を包むことになったのだ。









 地平線をオレンジ色に染めて雄雄しい姿を現わした天の主は、今日もスピラに生命の光を投げかける。それにつれて人々の営みも活気と喧騒を取り戻していく。

 パウダールームの鏡の前に陣取って、リュックは髪を結っていた。無造作にまとめているように見えて、本人には結構こだわりがあるらしい。何度か櫛を入れ、鏡の中の自分とにらめっこをしながら手早くとめていく。小さなあくびを噛み殺しながら仕上げにヘアピンを留めた時、螺旋をたたえた緑の瞳は鏡の端で何かが動くのを見つけた。
 振り向くと、そこには中腰でそこかしこを覗いて回っているユウナの姿。
「どしたのユウナん。何か探し物?」
 図星だったらしい。一瞬驚いたように見開かれたオッドアイが、どこか不自然な笑顔を作った。
「う、うん。ちょっとね。」
 なんとも歯切れの悪い返事だ。ここにはないとあきらめたのか背筋を伸ばした彼女。その姿をひと目見るなり、観察眼鋭いガードはあれ?と首を傾げた。
 ユウナの装いが何か、いつもと違う、何か足りないような気がする。
「実は…」
 召喚士の少女は恥ずかしげに髪をかき上げると、自分の右耳を見せた。頭の上に疑問符を飛ばしながら考え込んでいたリュックにも、ようやく得心がいった。トレードマークともいえる右耳の房飾り。貴石を連ね肩まで届く一番大きなそれが、あるべき場所に無かった。

 召喚士あるいは従召は、たいてい長髪だ。長く伸ばした髪は人ならぬ者、とりわけ祈り子との交感を容易にし、召喚士としての霊力を増幅させる働きを持つ。ユウナの場合この役目を果たしているのが、右耳に並んだ耳飾りという訳だった。小さい頃にビサイド寺院から授かって以来、髪を伸ばす代わりにずっとこの房飾りを身につけて修行してきた。今ではもう、自分の体の一部だといっても過言ではない。

協力を申し出たリュックにお礼を言うと、彼女は再び失くし物を探しにかかった。

 
「本当に、どこへ行っちゃったんだろう。」
 これで、心当たりはほとんど探しつくしてしまった。途方にくれながら、もう一度昨夜からの行動を思い起こしてみる。
 やっぱり昨日…
 泣きたいような気持ちになりながらユウナは天井を仰いだ。
 本当は、あと一つだけ疑わしい場所があるのだ。確かめるのが恐くてずっとそこを避けていたものの、もうそんなことを言っていられる場合ではなくなっていた。
 小さく息を吸い込んで一大決心を固め、ユウナは回れ右をした。彼の姿を探して、来た通路を引き返す。


「ワッカ。ユウナを見なかったッスか?」
 朝の挨拶もそこそこに、洗面所を覗き込んだティーダは先輩ガードの背中に質問を浴びせた。
「いや、今朝はまだ見てないぞ。」
 鏡の前で額のバンダナを締め直しながら、ビサイド出身の青年は答えた。ひげは手入れをしないくせに、前髪の立たせ具合には毎朝余念がない。
「そういえばルーが、探し物がどうとか言ってたな。」
 その言葉に、一旦引っ込んだ金髪の頭が再びひょっこりと覗いた。
「ふ〜ん。」
 生返事を残して、少年はふらりとその場を後にした。

 

「ユウナ!」
 背中から名前を呼ばれ、ユウナは文字通り飛び上がった。こわごわ振り向くと、そこには苦笑いを浮かべたティーダの姿があった。
 手招きされるまま、ギクシャクした足取りで傍まで寄る。と、彼はズボンのポケットに手を突っ込み、
「はい、これ。」
 何かを取り出して見せた。差し出された掌の上には、今までずっと探していた失くし物が光っている。
「あ、ありがと……」
 感謝の言葉が、どうしてもしどろもどろになってしまう。朧に思い出す夕べの記憶は次第に鮮明になってきて、ユウナを困惑の淵に追い込んだ。
「これって、やっぱり…」
 ちらりと見上げれば、彼も落ち着かない様子で後ろ頭をかいている。
「……キミの部屋に落ちてたり…した?」
 恐る恐る確かめる彼女の顔をティーダは無言で見つめ返し、それから首を縦に振った。

 決定的……

 今ここに穴があったらよかったのに。ユウナは恥ずかしさのあまり、両手で顔を覆って立ち尽くした。

 
 
 賑やかな、というよりは妙な盛り上がりを見せた夕食を終え、それぞれが部屋に戻ったその夜遅くのことだった。ドアをノックする音に、ティーダは部屋のドアを開けた。
 廊下には記録スフィアを胸に握り締めたユウナの姿。彼の顔を見るなり、少女はぱっと表情を輝かせた。
「ね、大発見なの!今これを訳してたんだけど…。」
 彼女は促されて部屋に入るとテーブルの上に一枚の紙とスフィアを置いた。
 スフィアは先日ナギ平原で発見した廟の内部を映したものだ。そこに眠っていた長剣は何処から見てもただの古ぼけた剣にしか見えず、とても実用に耐えうる代物ではなかった。ただ何か封印が施されてあるらしく、これこそが探していた伝説の武器かもしれなかった。廟の壁に彫りこまれていた文章が、今のところは謎を解く唯一の手がかりなのだ。
 紙にはスフィアに映っていた文章が書き写され、その周りに訳や注釈がびっしりと書き込まれている。
「よく読めるな、こんなの。」
 文字の形自体はスピラ文字に似ているけれども、エボン文字が混じっている上に文体が古めかしいので、ティーダにはさっぱり意味が分かない。ユウナの知識に、ただただ感心するばかりだ。 
「経典の文法に、少し似てるの。」
 お手上げ、とばかりに両手のひらを耳の辺りにかざして少年はおどけた。その仕草にくすりと笑いかけてから、
「それでね。ここなんだけど…。」
 紙の一点を指差し、蒼と翠の瞳を持つ少女は身を乗り出すようにして空色の瞳を覗き込んだ。
「この『光の道』ってあるのは、多分マカラーニャの森にあった、あの道のことだと思うんだ。」
 夢中になって話し続けるユウナの横顔に、ティーダはしばしの間見惚れた。夕食の時に飲んだ葡萄酒がまだ残っているのだろうか。髪をかき上げた拍子に垣間見えた彼女のうなじは、ほのかな桜色に染まっている。
 …あの後結局、ユウナがグラスを空にしていたっけ。
 自分を見つめる視線に気付いたか、ユウナは瞳を上げた。けぶるようなまなざしが、彼の胸を衝く。不埒な心の内を見透かされたようで少しばつの悪い思いをしながら、少年は紙の隅を指差した。
「こっちの、守護石ってのは?」
 横に小さな字で”日輪”と走り書きがしてある。
「力を与えてくれたり、お守りになったりする石のことだよ。柄の所にはめ込んであるタイガースアイがそうなの。」
 文字通り虎の目のように鋭い輝きを放つこの石は、太陽と共にその剣を守護しているのだという。
「私の守護石は、これ。」
 ユウナは右耳から一番大きな房飾りを外して、ティーダに手渡した。ラピスラズリとアクアマリンの珠を連ね、島伝統の貝細工をあしらったそれは、グローブの上で神秘的な輝きを放った。
 美しい海に囲まれたビサイド島からの贈り物を神妙な面持ちで鑑賞すると、彼はおもむろに顔を上げた。
「この石の色、ユウナの目の色とお揃いで…良く似合ってるよな。」
 ちょっぴりはにかんだような笑顔が、持ち主自身に賛美を贈った。金色の前髪と爽やかなブルーの瞳が作るコントラストは、夏の陽をはじき返して輝く海を思わせる。その眩しさにアクアマリンの煌めきを連想したユウナは、ちょっとした悪戯を思いついた。
「アクアマリンは、キミの瞳の色に映えると思うよ。」
 そういいながら白い指先で房飾りをつまみ上げ、優雅な仕草で腕をかざす。宝珠の連なりは、日に焼けた少年の耳元に運ばれて涼やかな音を奏でた。頬に触れるか触れないかの距離をふわりと彼女の指先が掠め、彼は一瞬呼吸を忘れた。
「よく似合ってる。」
 嬉しそうに目を細めたユウナの表情はどこかとろんとしていて、例えて言うなら滴り落ちる蜂蜜を連想させた。
「…あはは…は……。」
 つられて返す笑いに、内心のたじろぎが微妙に混じってしまう。その実この状況を不快でなく、むしろどこかで歓迎している辺りは、救いがたい男の性と言うべきかも知れなかった。

「…ユウナ、酔ってるッスか?」 

 お互いの距離は、とっくに限界突破していた。
 どちらからともなく、顔を寄せ合う。

「…ううん。少し物足りなかったかな。」
 
 グラス越しにじゃなく、キミを感じたい。
 確信犯めいた思いを胸の隅に抱えながら、彼の唇を受け止めた。


 長くて短い瞬間を分け合った後、ティーダはつ、と立ち上がった。
「酔い覚ましにコーヒーを入れてきてやるよ。」
 熱っぽい視線、誘うように開かれた唇。これ以上目の当たりにしていると、理性が蕩け、流されていってしまいそうだ。
酔っている状態の彼女と万一この先に踏み込んだりしたらフェアじゃない…と、彼は自制心を立て直した。

「酔ってないよ。」
 不満げに口をとがらせる彼女の言葉は、やはり少し舌足らずだ。

「了解ッス。でも飲むだろ?」
 笑いをこらえるのに苦労しつつ、ティーダはかわいい頑固者の抗議に応じた。酔い過ごした人間というのは、意外とその自覚がないものだ。
「うん。今日中にここまで訳したいな。」
 あでやかな笑みを投げかけると、彼女はペンを取り上げながら紙へと視線を落とした。考え考え書き付け始める。そんな彼女の生真面目さは、尊敬に値する反面がんばり過ぎではないかとハラハラさせられる。苦笑しながら小さく肩をすくめると、彼はキチネットへと向った。
 
 
「ミルクだけでよかったっけ?」
 ソファ越しに呼びかけたティーダの問いに、返事は返ってこなかった。

「………。」
 二つのカップを両手に持ったまま、戻った彼はしばし立ち尽くした。がんばり屋の召喚士は、右手にペンを持ったままテーブルにうつぶし、眠りの精に身をゆだねていた。
 このまま呆然と朝を待つわけにもいかない。無邪気に小さな寝息を立てている彼女を見下ろしながら、彼は途方にくれて、盛大なため息をついたのだった。









 今朝は確かに自分のベッドで目覚めた。けれどもユウナには、昨晩どうやって自分の部屋に戻ったか記憶がなかった。聞くのが恐い。でも確かめずにいられない。
「…起こして、くれたんだよね?」
 涼しげなブルーの眼が見開かれた後、ゆっくりとしばたたかれる。次の瞬間ティーダは弾けるように笑い出した。
「ぷーッ!あははははっ!」
 腑に落ちない彼女を置き去りにして、一人で笑い転げている。
「〜〜〜〜ッ。ユウナって、ホント酒弱かったんだな。」
 金髪の頭を勢いよく上げた少年は、笑いすぎで上がった息を弾ませながら、返事になっていない言葉を返した。失礼なことに腹を抱えたまま、しかも目の端に涙まで滲ませている。
 ちょっぴりむくれた彼女は、
「本当に、何も覚えてないッスか?」
 透き通った輝きを放つ瞳に見つめられて、アクアマリンに似ているって思ったんだった…と脈絡のない記憶を甦らせた。
 でも、いくら首をひねっても、肝心な所はやっぱり思い出せない。
「大丈夫…だったよ、ね?」
 何がどう大丈夫だったというのか。自分でも混乱しながら同意を求めたユウナに、ティーダは秘密を独り占めした子どものような眼をして、こう言った。

「お・し・え・ないッス。」

 人知れず眠り姫をエスコートするという大役を果たしたナイトにどのような栄誉が与えられたのかは、彼のみが知る所である。

-FIN-







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