Don't cry my baby.
 Good luck my boy.

 あなたは独りじゃない。
 ただその頬をそっと預けて、今はその翼を静かに休めて。







Good Luck My Boy 2












「今、なんて言った…?」
 陽に焼けた頬を驚愕にひきつらせ、金髪の少年は問い返す。不機嫌さを装った声は、動揺を含んで語尾が不自然に跳ね上がった。

「お前の母親から預かった。…お前が進路に迷うようなことがあれば、そのとき渡せと言われてな。」
 困惑に揺れる青い瞳を、射抜くような視線が見返す。襟元に手をやりながら、アーロンはまるで何でもないことのように答えた。漢の言葉は、いつでも抗いようのない真実を内包している。今までも事実そうであったし、恐らくこれからも。

 その声を噛み締めるように確かめながら、少年の視線は再び手の中の包みに注がれた。
「…いつ?」
「亡くなる二週間ほど前だったか。」
 男の口から淡々と語られる事実に、言いようもない感情が腹の奥から湧き上がる。平衡感覚さえ失ってしまいそうになるのを何とかねじ伏せ、平静を装って中身を問うたティーダに
「知らん。」
 隻眼の後見人はそっけなく言い放つと、サングラスを押し上げた。


 疑問符は更に膨れ上がって少年の内側を蹂躙していたけれど、これ以上アーロンにぶつけたところで埒もない。意を決し、手の中の包みを裏返す。封止めしてあるシールをぎこちない手つきで外すと、中からはカード状の紙製ケースが出てきた。艶のあるボール紙は白地で、中央にエンボス加工されたマークがあしらわれている。

 ザナルカンドエイブスのマーク。

 自分の目指すチームの象徴として。そして自分の大嫌いだった父親が誇らしげに見せびらかしていた印として少年には馴染みの深いものだった。

 ケースの中をあらためようとして、彼は裏側に貼り付けるように添えられたメッセージカードに気がついた。



 私のティーダへ
         幸運を祈っています。
                          母より

 



 カードには、たった一言、そう記されていた。

 死の床にあって、ペンを持つ力さえ残り少なかったのかもしれない。弱々しい筆圧。しかし神経質さが出ているともいえる小さく整った筆跡は、崩れていなかった。ティーダには見まがうはずもない、今は亡き母親の直筆そのものだ。
 帰らぬ男を待ち続け、病室のベッドで日増しに弱っていった彼女。力無く微笑む母を見るたびに、少年はますます父親を憎んだ。
 
 母親からの更なるメッセージを求めて、彼の指はケースの開封口にかかった。

 薄紙を破った中から覗いたのは、鈍い銀の光。掌で受けると、重厚感を持つデザインチェーンはずしりとした重みを伝えて流れ落ちた。エイブスのオフィシャルグッズのうちの一つ、ブレスレットだった。


 漢の静かな声が部屋の空気を震わせ、少年の耳を打った。

「あの人には、底の浅いお前の考えなどお見通しだったようだな。」

 絶頂にありながら、忽然と姿を消したブリッツの英雄。彼の失踪をザナルカンドに住む多くの人々が惜しみ、彼が胸に刻んでいたエイブスマークをあしらった追悼記念グッズが次々と発売された。また時期を同じくしてオフィシャルグッズには新しくアクセサリーがラインナップされた。ピアス、ペンダント、リングはチームマークをあしらったデザインである。ブレスレットだけはスポーツシーンでの機能性や実用性を重視した結果、ペンダントと同デザインのチェーンというシンプルな形が採用された。

 母には、父親を嫌悪しつつもブリッツ選手を志すであろう息子の将来が見えていた。そして目標とするだろうチームさえも正確に予想していたのだ。マークをあからさまにあしらったものはジェクトを連想して反発を強めるだろうことまで恐らく考え合わせ、これを選んだのだろう。
 後見人へ託して、未来の我が子へ贈るために。


 
「ずるいよ母さん、オレを置いてさっさと逝っちゃったくせに。」
 胸に去来する想いは余りに鮮烈で、わななく唇を抑えようもなかった。
「今更こんなもので縛るのかよ…。」
 噛み締めた前歯から、喘ぐようにかすかな言葉が漏れ落ちる。
 やっとのことでそれだけを搾り出すと、彼は黙りこんだ。
 言葉を発しようとすれば多分間違いなく、代わりに涙が溢れてしまうだろう。

 ティーダは窓の外を気にかけるふりをして、ぷいと横を向いた。蜂蜜色をした頭髪の向こうから聞こえたのは、消え入るような鼻声だった。
「雨、上がったみたいだぜ。」
 雨音は、いつの間にかやんでいた。

「そうか。」
 男は引き際を心得ていた。自分がこれ以上言葉を重ねる必要はない。今夜はゆっくり母親の遺志と向き合えばいい。
 玄関へ向かうアーロンの背中をティーダの声が追いかけた。立ち止まって肩越しに一瞥する。
「今日は………ども。」
 漢は表情を崩さなかったが、大きな傷に塞がれた眼元が僅かに歪んだ。感謝の言葉としては甚だ言葉足らずだけれども、生意気盛りの少年にとっては最大限の努力かもしれない。黙って片手を上げ、訪問者は華やかなイルミネーションが滲む街へ消えた。


 独りになると、ティーダは寝室へ向かった。雲を踏みしめているようで、運ぶ歩がいささか頼りない。ベッドに体を投げ出しシーツを引き被ると、手の中のブレスレットをそっと握り締めた。いつの間にか温もりを帯びた滑らかな銀細工はその確かな重みを掌に伝え、彼をひどく安心させた。

 明るく振舞うその抜けるような笑顔の裏で、少年は孤独に怯えていた。身を刻まれるようなその不安は時折やってきて、幼い彼を苦しめた。

 母の心の中に、自分の居場所は無かったのではないかと。

 シーツに片頬を押し付けながら、もう一度細い金属の流れを指でたどってみる。掌の上で緩やかに形を変えるそれは、密やかに澄んだ音さえ耳に届けるようで―――。
 彼は背中を丸めて、キャラメル色に焼けた膝頭を抱え込んだ。自分の恐れていたことは杞憂に過ぎなかったのだ。メッセージを携えたチェーンの感触は亡き母の体温まで伝えるようで、少年をひどく安心させた。

 眠らない街を飾るイルミネーションは、雨上がりの湿った空気にぼんやりと溶けて滲む。今は不夜城の喧騒も街灯りの切れ端さえも、追憶の淵に沈む彼の心を乱すことは敵わない。
 ひっそりと優しい闇がたゆたう部屋の片隅で、押し殺した嗚咽が微かに夜の空気を震わせている。
 暖かく透明な涙は絶え間なく頬を濡らし、少年の意識をいつしか穏やかな眠りの園へと押し流していった。



 いい具合に煤けた店内に客が入ってくるたび、渋く枯れた大将の声がかかる。
「ぃらっしゃい。」
 田舎料理を食べさせるその店は、良い酒を揃えており、適度な静けさがいい具合でアーロンの行き着けとなっていた。
 緋色の上着をまとった長身はいつものカウンター端ではなく、今日は奥のテーブルだった。賑やかな連れがいるためだ。
「うはー。腹減った〜!」
 間仕切りとの狭い隙間に身を放り込むようにして座ったティーダは、座るなりメニューに手を伸ばした。
「乾杯が先じゃなかったのか。」
 品書きと睨めっこしている万年欠食坊主をはすに眺めやりながら、アーロンは揶揄の言葉をかけた。
「久しぶりにプールで練習したら、んもう腹減っちゃってさあ。どうせ飲むのはアーロンだけじゃん。」
 今日ティーダは晴れて十日間の謹慎処分を解かれ、登校してクラブチームの練習に参加した。事実関係は最後まで不明な点が多かったが彼の重大な落ち度が見当たるわけでもなく、うやむやのうちに事は幕を閉じた。
 水を得た魚というのは、まさにこのことか。透き通った水そのもののような瞳はいつもの輝きを取り戻し、人懐っこく快活な笑顔を惜しげもなくさらしている。
 すっかり復調した少年の様子に、保護者代わりの彼としても正直悪い気分ではなかった。
 
 テーブルに並ぶ料理を片っ端から制覇していくティーダに、アーロンはニヤつきながら尋ねた。
「で、後見人はどの書類にサインすればいいんだ?」
「んあ?ひょふいっへ?」
「…しゃべるのは全部飲み込んでからにしろ。」
 思案顔のままさらに豆の煮込みを頬張っていた少年は、照れくさげに保護者代わりの男を睨んだ。
「それってダグルスとの契約の事?おっさんも 人が悪いよな。」
スプーンの裏についたソースを、赤い舌で行儀悪くなめ取りながら、
「とっくにゴミ箱行きッスよ。」
 と付け加えた。
「敵チームの見え透いたシナリオに引っかからん程度には頭の方も鍛えられていたようだな。結構なことだ。」
 アーロンの言葉に、スペアリブを口に運ぼうとしていたフォークが思わず止まった。
「どういうことだよ。」
「発端になったいざこざ自体が、引き抜きのための罠だったかもしれんということだ。」
 漢はしれっと返した。確証は無いがな、と続いたが、ティーダの眉はきりきりとつり上がる。
「きったねー…。」
 険しい表情になった血気盛んなブリッツ少年は、片目から注がれる視線に気付いた。ばつが悪そうに両掌をひらひらと振って見せる。
「今どうこうするつもりは無いッス。この借りはいずれスタジアムで返すよ。」
 そこまで言うと肉食獣のように危険な光をたたえ、未来のエースは浅黒く滑らかな頬に挑発的な笑みを乗せた。
「利子つけてさ―――。ところでスペアリブ、おかわりしていいッスか?」
 ころりと表情を変え、料理を平らげながら満足げな笑顔を見せる屈託の無い少年を前にして、漢は胸にほろ苦い想いを抱いた。
 
 夫人との約束は果たされた。ぬるま湯に浸りきったような、予定調和の平和な毎日の中でも、こうやって小さな物語は続いていく。過酷な運命に放り込まずとも或いは――。そこまで考えて、隻眼の異邦人は静かにかぶりを振った。
 
 いずれ友との約束を果たさねばならない時がやってくる。逃げも隠れもできはしない。あれは、いつか確実に目覚めるだろうから。

「どしたんだよ?アーロン。」
 青い眼が怪訝そうにこちらを見つめている。
「いや、なんでもない。」
 いささか自嘲的な笑いを、少年は何と受け止めただろうか。
「ボケても、世話なんかしてやらないッスよ。」

 無礼千万な言い草を、ふん、とアーロンは余裕の鼻息で吹き飛ばした。つい何日か前、母親の遺品を前にした時のしおらしい態度とは似ても似つかない生意気さ。いささか辟易しつつも、この弾むような生気に溢れた少年にはこれぐらいが似つかわしいのかもしれないと苦笑混じりに思う。









 一年後。
 ザナルカンドエイブスは、話題性、実力共に申し分のないヒーローを迎え、スタジアムをますます賑わすチームとなる。

-FIN-


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