何の変哲もないそこが、焦がれてやまない場所になる。



P r e c i o u s

 
 
 






 
 廊下の落ち着いた間接照明に並んで浮かぶ、アイボリーホワイトに塗られたドア。
 一室の前に立ち止まり小さく背筋を伸ばした彼は、神妙な面持ちで扉に記された金文字の番号を確かめた。
 「1203室…っと。」
 コンコンと乾いた音がホテルの廊下に響いた。

 永遠のナギ節が始まる以前は、娯楽のために旅をする人は皆無に等しかった。けれどもシンという暗雲がスピラを覆うことが無くなって人々の生活も豊かになった結果、各地で旅そのものを楽しむための宿泊施設が建設されるようになった。
 港町ルカに昨年建てられたこのホテルもその一つで、ブリッツシーズンともなれば、120ある客室が連日いっぱいになる。ブリッツ観戦や市内観光便利な立地条件のほかは取り立てて特徴は無いながら、小ざっぱりした調度と気楽な雰囲気が人々に好まれている理由だろう。

 小さくドアが開いて、豊かな栗色の髪を肩までたらした女性が覗いた。待ち人の姿を認めて、嬉しげな笑顔が花開く。

「お帰り。」
 柔らかに迎え入れる、声。
「ただいま。」
 少しだけくすぐったそうに、けれどもごく自然に返す、声。
 隔てられていた二人の空間が、溶け合ってひとつになる。 







 少し首を傾げながら見上げるユウナの、笑顔。

 美しい色違いの瞳が星のように煌めくたび、ティーダの鼓動は高鳴る。
 出会ってからこれまで幾度笑みかけられたか知れないのに、いつも新鮮な感覚を伴って胸に響く。
 
 始まりはビサイドだった。ほの暗い神殿の奥で、彼女と初めて出会った。一人で身を支えられないほど消耗しながらも、事を成した誇らしさに輝く笑顔。
 望郷の想いも、見知らぬ世界での心細さも、なぜかその時は忘却の彼方へ吹き飛んでいた。ワッカの言う「召喚士」が無事だったことの安堵と、それから大きな驚きと。それよりも召喚士となったばかりの少女を見上げるティーダの心を支配していたのは、不思議な高揚感だった。
 誰の目にも見えない、小さな始まり。けれども確かにこの瞬間から、何かが動き出した。
 
 必死になって自分の居場所、帰る場所を求めていただけの少年は、いつしか自らの居るべき場所を彼女の隣に決めた。
 長い旅路を、かけがえのない一人を支え守ることで、自分自身もまた支えられてきた。
 召喚士の、仲間の、スピラの想いに触れ、採るべき道をも決めた。


 これからもずっと守ってみせる。
 その笑顔を目に焼き付けるたび、至上の誓いを新たにする。

「外は寒かったでしょ。」
「もう風が冷たいのなんのって。ビサイドの暑さに慣れた体にはきついッス〜。」
 温暖な気候で知られるルカといえども、真冬は大陸からの冷たい北風が吹く。まして酔いが冷めてきた身に、夜風は少しだけ染みた。
 チャコールのショートコートをクロゼットにしまうと、ティーダは靴もそのままでベッドへ仰向けに倒れこんだ。スプリングの利いたクイーンサイズのベッドは青年の背中を絶妙な加減で受け止めた。
「何か飲む?」
「酒ならパス。ユウナの入れてくれたお茶なら、大歓迎ってことで。」
 勢いよく跳ね起きながら、彼は答える。夕方のパーティーでご馳走とアルコールと社交辞令の波状攻撃にさらされた体は、少々疲れて休息を要求していた。今は暖かい飲み物が恋しい。
 本当の所はユウナが出してくれたものなら何だろうと構わなかったけれど。

 ユウナが豪華な肘掛け椅子から優雅に立ち上がった。花柄の裾が軽やかに広がり、そこだけ春が訪れたように華やぐ。一枚の絵のような光景をぼんやりと見送ってから、彼は首をめぐらして部屋の中を見回した。
 座っているベッドの隣には、サイドテーブルを挟んで同じものがもう一つ置かれている。ユウナのストールとファッション雑誌が無造作に置いてあるそちらの今晩の役目は、最高級の物置台。
 …無駄と贅沢は紙一重ってところッスか。
 広いバスルームとキチネット。他に来客を迎えるための独立したスペースも備えられている。スイートとあって、さすがに間取りが贅沢だ。
 黒いドレスシャツの襟元を緩めながら、ため息とも苦笑ともつかない小さな息をティーダは吐き出した。宿といえば旅行公司の狭い個室という旅暮らしの日々をふと思い出したのだ。
 普段着慣れない格好は窮屈だ…等と取りとめもないことに気をとられながら、投げ出した足を胡坐に組んで、頬杖に顎を預ける。

 あの旅があったから今がある。
 自分達で選んだ道とはいえ、一緒にいられる時間は短いのだから少しでも欲張って楽しみたい。

「あんまり立派なお部屋だから、最初びっくりしちゃった。」
 ティーダの内心のつぶやきに応じたかのように、ユウナはくすりと笑いながらキチネットから顔を出した。
 入れたてのハーブティーを運んできて、飴色に磨きこまれたテーブルにカップを置く。
「せっかくだから一番上の階に泊まれば、夜景がよく見えるだろうと思ってさ。」 
 ユウナの向かいに腰掛けながら、ティーダは思い切り得意げな調子でうそぶいた。

 これまではシーズンオフを迎えたルカは静かなものだったのだけれど、永遠のナギ節を迎えてから、その様子は毎年様変わりしつつあった。一年を通して人と物が行き交い、この港町は今やベベルを凌いでスピラ一の情報発信地となっている。今年の冬は、初めてブリッツファンのための大掛かりなイベントが開催されることになり、各チームのスター選手は軒並み季節外れのスタジアムに集められたという訳だった。
 イベントはまずまずの成功をおさめ、動員数に恥じないものとなった。イベントで会った人々のことや起こった出来事。夕方から始まったレセプションパーティーのこと。陽気に紡がれる取り止めの無い話題を、ユウナは湯気の向こうからにこにこと聞いていた。
 
 さっきから自分ばかりが喋っていることに気がついて、ティーダはふと口をつぐむと、ぱりぱりと後ろ頭をかいた。
「ごめん、何かさっきからオレばっかり喋ってて。」
 唐突に謝られて、ユウナの心拍数はぴょんと跳ね上がった。彼がどうしてそんなことを言い出したのか分からなくて、少し焦ってしまう。
「キミ、謝るようなことしてないよ?」
 困惑の色を浮かべたオッドアイに見つめられて、今度はティーダがドキリとする番だった。黄金色の頭髪から離れた右手が、所在無げに宙をさまよう。
「あ、えーと。退屈してるかな?と思って。」
 手探りのようにして、そろりと繋いだ青年の取り越し苦労を、彼女は一笑に付した。

「全然。キミの声好きだから、もっと聞きたいな。」
 夏空を切り取ったような両眼が一瞬まん丸になる。日に焼けた頬にちょっぴり苦笑を乗せて彼は切り返した。
「声…って…。つまり話の中身はどーでもいいってことッスか?」
 ティーダの問いは素直すぎる反応とも、小意地の悪いからかいとも取れる。ユウナは困ったような上目遣いで見上げたかと思うと、桜色の頬を膨らませて肩をそびやかした。
「そういうことを言うなら、もう知りません!」
 そのままぷいと横を向く彼女。恋人の可愛いふくれっ面はお決まりのパターンで。それと知りつつ青年の反応もまたお決まりのパターンだった。
 ここでいつも形勢は呆気なく逆転するのだ。
「あ、悪かった!もう言わない。反省してるッス!」
 両手を顔の前で合わせ、大げさに反省をアピールする彼は、悪戯を成功させた子どものようにどこか楽しそうだ。
「今度という今度は怒ったんだから!」
 白魚のような指先がほんのりと染まるほど拳を握り締めながら、けれどもいつ救いの言葉をかけようかとタイミングをはかる彼女と同じくらいに。





「ここからの夜景、凄く綺麗なんだよ。」
「ほんとッスか?」
 ユウナの言葉に、ティーダは大窓に歩み寄るとカーテンを引き開けた。
「…っと、部屋が明るいと見えないッスね。」
 トーンベージュの色をした厚地のカーテンの向こう、外の景色を塗りつぶすように、窓には部屋が映っている。頭を掻く自分の背中越しに、ユウナが笑って立ち上がった。夜鏡の中を壁へと寄り、照明のスイッチに手をかける。

 部屋が闇に沈むと同時に、眼下に光のパノラマが広がった。
 地上の明かりは星屑を敷き詰めたように帯状に流れ、その向こうには黒々と広がる静かな海。

 窓ガラスに額を押し付けるようにして眺めていたティーダは、すぐに顔を上げた。
「大丈夫ッスか?」
 真っ暗な中、彼女の足元が心配になったのだ。
「すぐ目が慣れるから大丈夫。」
 答えたユウナは、危なげの無い足取りで窓辺へ寄る。
 差し伸べられた腕に、ためらいなく自分のそれを伸ばす。

「こんなに沢山の明かりが灯って。すごいね。」
 歌うように呟いたユウナは、星明りを飾った青い双眸を見上げた。
 
「いくら綺麗な眺めでも、ここで待ってるのは退屈だったろ?やっぱり外で待ち合わせすればよかったかな。」
「ううん。そんなことないよ。久しぶりにゆっくりしちゃった。」

 ―――もうすぐキミに会えると思ってたから、無駄に感じるどころか、すごくワクワクしてた。

 そうはにかみながら付け加える彼女は、自分の言葉がどれほど罪作りであるか果たして知っているのだろうか。ブリッツで鍛えられた度胸も研ぎ澄まされた精神力も、いじらしい恋人の一言であっけなく崩壊する。

「…じゃ、会えた今は?」
 華奢な指先をとって再び引き寄せながら、彼は額に口づける。
「聞こえない?」
 吐息を含んだ艶やかな声は、窓ガラスの滑らかな表面を滑り落ちた。
「こんなに心臓がドキドキいってるのに。」
「自分のがうるさ過ぎて、気付く余裕がなかったッス。」
 言葉の軽さとは裏腹に、囁きの温度は熱い。伝わる温もりを確かめながら、彼女は瞼を閉じた。
 互いを固く結び合わせた二人を、空と地上に競う光の群れが照らす。






 スピラの夜は、闇が深い。人工の明かりに囲まれて暮らしていた彼と違い、月と星の光以外で飾られた夜の光景は彼女の目に新鮮だった。
「もっともっと街が大きくなったら、あの光が海みたいに大きくなるかな。」
 心なしかはしゃいだ彼女の声を耳に心地よく聞きながら、ティーダは答えた。
「そうだな、50年位したら…。」
 きらびやかに輝くイルミネーション。昼夜を問わず都市を彩る華やかな喧騒。自分の故郷を思い浮かべかけ、彼はほろ苦く打ち消した。
 夢の中にしか存在しない街。連れて行くと約束したことがあったけれど、それは永遠にかなわない。実在しないのだから。

 夏の日差しにかかった一片の雲のように、溌剌とした彼の表情に僅かな蔭りがよぎる。
 彼女はそれを見逃さずにいた。

 言いよどんだ青年の精悍な横顔に、彼女はさらりと問いかけた。
「キミのザナルカンドみたいに、明るくなるかな。」
 言えなかった言葉に、後で後悔したくない。傷つくこと、傷つけることを恐れて口をつぐみたくはない。

 キミならきっと受け止めてくれる。
 そう自分を奮い立たせ、ユウナは彼の胸にそっと掌を置いた。
「キミのザナルカンドは、ここにあるよ。」
 ついで、自分の胸に手を当てる。
「そして、教えてもらった私の胸にも。」
「ユウナ…」
 抱きしめたその腕から伝わる確かな温度を感じながら、ティーダは噛み締めるように呟いた。

「オレは大丈夫。だからそんな顔すんなよ。」
 長い睫毛を僅かに震わせ、見上げる彼女の瞳。翠と蒼の星に向かって、祈りにも似た愛しさが溢れ流れ出す。
 笑顔に涙が混じらないように苦心しながら彼は言った。
「オレにとってのザナルカンドは、もう思い出だけで充分ッス。」

 自分の生きる場所は彼の地ではない。
 思い出の故郷よりも、ずっと触れていたい今があるから。
 






 ユウナの笑顔に、オレが帰る。

 キミの笑顔に、私が帰る。






 何処に生きるのかではなく、誰と生きるのか。
 二人で探そう。
 かけがえのない、その笑顔のためにできること。




  -FIN-






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とりとめがないなあ。(見も蓋もない:笑)
好き勝手くっちゃべってますね二人とも。

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