Berry-very-berry




 小さなため息と共に、ユウナは左手に持っていた小筆を、テーブルの上に置かれた小瓶に注意深く差し込んだ。すぐ傍らに並んでいた除光液を手に取る。液を綿に含ませると、花の香りを模した香料に紛れて独特の芳香が立ち昇った。
 利き手と反対側の指にネイルカラーを乗せるのは、案外骨が折れる。まして、普段からそれほど飾り立てることのないユウナは、実はマニキュアを塗ることに慣れていなかった。せっかく三本目まで塗ったけれども、はみ出しがあるし塗りムラができるしで、どうしても気に入らない。
 指先を丁寧に清め終わると、ユウナはもう一度小瓶を手に取った。紅色の液体で満たされた小さな丸いフォルムのガラス瓶が、ほのかな冷たさをユウナの指に伝える。せっかくプレセントしてもらったのだから、綺麗に仕上げたい。

 ブリッツの遠征で出ていたティーダのルカ土産。新物好きな彼は、おもしろいものを見つけるたびあれこれと買って来てくれる。
 永遠のナギ節が訪れたスピラでは、生活必需品だけでない様々な雑貨がたくさん作られるようになり、人々の暮らしを潤しつつあった。
 秋の新色だというそれは、いつかミヘン街道辺りで口にした木苺の紅さにも似ていてユウナはひと目で気に入った。普段使いには少し濃いかもしれないけれど、すぐにでも塗ってみたくなった。

 …のだけれど。

 バスルームに続く扉が開いて、プレゼントの贈り主が顔を出した。蜂蜜色の雫をバスタオルで拭き取りながら出てきた彼は、まっすぐ冷蔵庫へ向かい、ビールを取り出した。
「牛乳も入ってるよ。」
 成長期の終わりまでにそろそろ余裕がなくなってきたティーダは、身長を伸ばすために本人言うところの涙ぐましい努力とやらを続けている。ただ元々牛乳が好きな上、1リットルという量も彼にとって大したことではないので、どの辺りが涙ぐましいのかは謎だ。
「取りあえずこっち。ノルマは後でこなす…ってことで。」
 ユウナの声に、ティーダはバスタオルの上から頭をかきつつ答えた。行儀悪く足で冷蔵庫のドアを閉め、プルタブをひく。黄金色をした麦の恵みが乾いた喉を潤した。

 バスタオルをランドリーに放り込み、リビングへ入ったティーダは、先刻と変わっていないユウナの指先を見て尋ねた。
「どうしたの、やっぱり気に入らなかった?」
 軽い問いを、ユウナは慌てて否定した。
「そんなことないよ!」
 自分でもびっくりするぐらいに大きな声が出てしまって、ユウナはますます慌てた。面食らったように空色の瞳を見開く彼に向かって、頬を火照らせたまま小さな声で言い訳を始める。
「上手に塗れなくて…それで、やり直そうと思って。」
 言いながら小瓶の蓋を開け、再び挑む。今度は向かいのソファに座った彼の視線が、どうも気になって集中できない。
「あの…、緊張するから向こう向いててくれる?」
「何だよそれ。」
 吹き出しつつも、ティーダは大人しく彼女の要求に従った。ソファに腹ばいになって、手元の雑誌をめくる。

 細心の注意を払って、ちまちまと塗っていくユウナの作業はしかし、今回も報われなかった。表面に筋模様がついてしまったのだ。落胆しながら再び除光液に手を伸ばしたユウナの手元を見つめていたティーダが、ふと立ち上がった。
 指先を拭くユウナの隣にすとんと座り込むと、ネイルカラーの瓶をつまみ上げる。

「手、出して。」

「え?」
 言われるままに白い手を差し出す。いい色に焼けた彼の左手が、受け手の形からひょいと親指をつまんだ。他方では小瓶の蓋を右手だけで器用に開け、小筆の穂先をしごいている。
「こういうのは、勢いってものが大事ッス。」
 そうこう言ううちに親指から塗られ始めた爪は、もう薬指までパールをまとったベリー色に染められていた。はみ出さず、ムラもなく。器用だとは知っていたけれど、意外と言えば意外すぎる。初めて見るティーダの特技に彼女は驚きを隠せず、ただ自分の指先が美しく彩られていくのをぽかんと見つめていた。
「上手だね。」
 素直な賞賛の言葉に、彼はくすぐったそうに答えた。
「このテのことは、昔よくやったからな。」
 昔…って、いつのことだろう。ザナルカンドにいた頃…?誰かにこういうこと、してあげたって…そういう意味かな…?ふと頭によぎった考えは、彼女の胸をちくりと刺した。
「…あんまりそういう話は、聞きたくないかな。」
 ぽつりとそういったきり黙りこんだ彼女の、心なしか吊り上った美しい柳眉に気付いて、彼は苦笑を漏らすと種明かしを始めた。
「ガキの頃、よく作ったんだ。プラモデル。」
 話がよく見えなくて、今度はいぶかしむ表情を隠しきれないユウナ。翠と蒼の瞳が困惑に揺れるのを見て、ティーダは説明を付け足す必要を悟った。
「プラモデル…ってのは、えっと、乗り物とかの模型で、バラバラになってるパーツを組み立てるわけ。」
 神妙な顔をして聴いているユウナがいじらしくて、抱き寄せてしまいたい。そんな衝動を何とかやり過ごすと、塗り終えた小筆を瓶に戻した。
「パーツをくっつけるのに接着剤を使うんだけど、それを塗る筆が、これとそっくりだからさ。」
 そこまで一気に言って、美しい恋人の顔色をうかがった。固かった表情がみるみるうちに解け、恥ずかしさを隠そうとしているような笑顔が花開くように現れる。
 綺麗な秋色に飾られた爪の先を眺めている幸せそうな顔のユウナに、自分も満足感を覚えながらティーダは訪ねた。
「プラモデルって、スピラにもあるの?」
「木でできた船の模型なら、見たことあるけど……」
 彼女の説明を聞きながら、ふと遠い故郷での出来事が胸に甦る。
  
 プラモデル…いつも母さんが「親父からだ」って前置きしてくれたっけ。見え透いたウソだって思ってたけど、時々混じってた変なのは案外本当に親父からだったのかもしれないな。

 最近こんな風に、ザナルカンドのことを思い出す。けれどもそれは夢や幻への郷愁ではない。ユウナのいるこの世界で、ユウナと共に生きることを決めた自分…ティーダという人格の一部を形作る、大切な記憶なのだ。

 見守るユウナの静かな視線に気がついて、ティーダは、はにかんだように笑いかけた。ユウナの頬にもホッとしたような笑みが浮かぶ。
 感情が、すぐ顔に出てしまう。そんな素直な性格の彼女を愛しく思いつつも、ティーダは今度はわざと性悪な笑みを作って軽口を叩いた。 
「ところでさっき、何か、誤解してたろ。」
 全部分かっているくせに、そういうことを言い出すのだ。意地悪なからかいに、ユウナはいささか子どもっぽい仕草でそっぽを向いて対抗した。
「何のことだか、分からないよ。」
 ティーダが喉の奥で笑いを噛み殺しながら、耳元に顔を寄せる。
「こんなご奉仕すんの、後にも先にもユウナだけッスよ。」
 弱い所に彼の吐息を感じて、ユウナは頬を紅色に染めた。自分の焦りようを笑っている彼の余裕ぶりが、少しだけ悔しい。
 精悍な掌が伸びて、白い手を取った。
「よく似合ってる。」
 骨張った指が、パールの光を放って濡れたように艶めく果実を、慰撫するように包み込んだ。お互いの吐息が絡み合う。
 さざ波に光を散らす海のような双眸。抗う術もなく溺れ、蕩かされる自分が、本当はもっと悔しい。

   ほら、またこうやって―――。
 
 







「わっっ!!」
 翌朝、遅い目覚めを迎えたティーダは自分の手を見て仰天した。
「〜〜〜ッ!!油断した!」
 両手を天井にかざしてため息を一つ。両の指先に咲いた木苺色のネイルカラーが、眠気の残る目にも鮮やかに飛び込んできた。
 それから寝癖のついた頭をかき回す。獅子のたてがみにも似た金髪を梳く小麦色の手。その先で紅く光る爪は、やはり何とも不釣合いに映る。
 意識的に細く開けられた扉の向こうからは、コーヒーを入れるいい香りが漂ってくる。自分のあげた素っ頓狂な声を聞いて、オッドアイの恋人はころころと笑っているに違いない。

 ユウナの突飛な悪戯にどうやって意趣返ししようかと胸をわくわくさせながら、ティーダはベッドから勢いよく跳ね起きた。

 −FIN−