銀色にけぶる月の光が音もなく降り注ぎ、地上を優しく密やかに照らす時間。ベベルの町並みは、昼間の喧騒をしばし忘れて口をつぐみ、空を切り裂かんばかりの尖塔さえ、眠りの翼に覆われる夜。
 引き忘れたカーテンの隙間から青白い燐光が流れ込んでくる。広い室内の端にしつらえられた寝台の上で、浅い眠りから目覚めたユウナは、そっと目を開けた。

 抱き合ったまま、しばらくまどろんでいたらしい。彼の体温が、逞しい腕の重みと共に肌を介して直に伝わってくる。深く静かに繰り返す寝息が、くすぐったさを伴って耳に心地いい。
 寄せた頬が感じる暖かさに、うっとりと身を任せる。

 しばらくそうしていた後、細心の注意を払いながら肩に回された彼の腕を静かに外した。
 優しい闇の中、そろそろと身を起こす彼女の白い背中が浮かび上がる。

 豪奢な絨毯に降り立つと、彼女は月明かりに薄青く染められた窓辺へと歩み寄った。一足ごとに身体が沈むような長い毛足は、普段は歩きにくいだけだと思っていたけれど、こうして素足で踏むと新鮮な感触を伝えてくる。



十九夜





 大きなはめ込みガラスの窓の外は、闇色に月明かりの薄絹をまとった夜空が広がっていた。今夜は臥待月。ふっくらと優しい曲線に囲まれて、でもどこか満たされぬたたずまいで、淡い沈黙の海に浮かんでいる。


 「…どうしたッスか。」
 背中越しに聞こえた眠たげな声に、くすりと笑って振り向く。
 指先に触れた窓ガラスから伝わってくるひんやりとした感触は、静かに差し込む銀の光が持つ温度そのもの。
 まだ半分夢の園の住人でいる恋人に向って、ユウナは歌うように答えた。
「月がね、きれいだなあ…って。」
 窓辺で微笑む彼女の姿は、ひっそりと照らす月明かりに淡く甘く溶け、たおやかなスロープを描く。幻想的な光景をぼんやりと鑑賞していたティーダは、ふと我に返った。慌ててシーツを引っつかむと寝台から飛び降りる。
「ユウナっ!!」
 頭の上からぱさりと音を立ててシーツが振り、彼女の視界を遮った。真っ白になった目の前に慌ててもがくと、柔らかな布越しにぎゅっと抱きしめられた。
 まとわりつく布の波をかき分けてようやく頭だけを出したところで、ちょっと怒ったみたいなティーダの顔と鉢合わせした。
「……?」
 何か慌てさせるようなことをしただろうか。脳裏に浮かんだ小さな疑問符に導かれるまま、ユウナはじっと見つめ返した。
 大真面目なその表情に潜む意味を知りたくて。

 一方のティーダは、自分の焦燥にまるで気付く様子のない恋人に、そっとため息を噛み殺した。
 この場に不釣合いな大声を出してしまった自分を取り繕うように咳払いして、彼は眉間にしわを寄せたままぼそっとつぶやいた。
「…カーテン開いたままッス…。」

 彼の声音に思わず吹き出しそうになる口元を押さえながら、ユウナは言い返した。
「今この部屋を覗けるのは、お月様と星達くらいだよ?」
 かつてエボンの最高権力者が住まっていたこの場所は、部屋としてはベベル宮の最上階だ。しかもその権勢を誇るがごとく重厚な石造りのバルコニーに守られている。
「けどさあ…」
 金の鈴を鳴らすような声で小さく笑い転げている彼女に、ティーダは憮然として食い下がった。不満げな調子で鼻を小さく鳴らした後、降参と言った風情で肩をすくめ苦笑を浮かべた。
「例え月にでも、見せたくないな。」
 窓を背にするように向きを変え、彼女を再び腕の中に収めた。月明かりにプラチナ色の輪郭を浮かび上がらせ、その陰影は計算された濃さを保って彼女を覆う。まるで月からその姿を隠そうとでもするかのように。
 
 そうしておいて彼女の耳元に頬を寄せ、囁く。
「オレ、意外と独占欲強いんだ。知らなかったろ?」

「じゃあ、キミは知ってた?」
 彼の胸に預けていた頭をふともたげ、向き合うとユウナは問うた。優雅に弧を描いて、華奢な指先が青白い月光に濡れた彼の髪に伸ばされた。
 頬にかかる銀糸を梳きながら、語りかける。
「月の神様はね、女性なんだって。気をつけなきゃいけないのはキミのほうだよ。」
 冗談めいた言葉とは裏腹に、色違いの宝石を心なしか潤ませて、ユウナは真っ直ぐ見上げた。
「見初められて、さらわれたりしないように。」 

 吸い込まれそうな錯覚に溺れながら、ティーダは彼女の顔を見つめ返した。スピラの恵みを余すことなく映し、何物にも代え難い美しさを宿すその双眸。こんな薄暗がりの中でさえ、いやむしろ闇が満ちるほどユウナの瞳は鮮やかさを増すように思える。
 


 ぽつりとこぼされたその言葉を心のどこかで重く受け止めながら、彼は少しだけ声に力を込めた。
「オレはもう、どこにも消えたりしないッスよ。」

 かそけき密やかさに満たされた空間で、彼は厳かに誓う。

「女神なんかより、ユウナの傍がいい。」













  



「…そろそろ部屋に戻らなくちゃな。」
 大きな羽枕に顔の半分を埋めたまま、ティーダはつぶやいた。月は既に高く、ベッドの中からはもうその姿を見ることができなかった。
 僧官長のシェリンダが上手に取り計らっていてくれるとはいえ、寺院の中では二人の仲を快く思わないものが大半だ。
 公の目に触れる場所や時間帯では、二人の仲を気取られるような振る舞いを慎むこと。これがシェリンダと交わした約束だった。自分は鼻持ちならない僧官どもからどう思われようと痛くも痒くもなかったけれど、ユウナを守るために無用な波風を立てないに越したことはない。彼女のためと思えば、これくらいの譲歩は仕方ないと本人も割り切っている。

 名残惜しい気持ちになるのはいつものことだけれど、今夜のユウナはいつになく必死になって引き止めた。
「もう少しだけ、いいでしょ?」
 できることなら朝までだって一緒にいたい。まして愛しい想い人の頼みなら尚更だ。けれどもけじめはつけなければならないことを、彼はわきまえていた。
「朝のおつとめってやつがあるんだろ?そろそろ休まないと明日に差し支えるッスよ。」
 栗色の前髪をくしゃりとかきあげ軽い調子で言い含めると、ティーダは背をかがめ、ミルクを溶かしたように白い額にキスを落とした。

 身を起こそうとする彼の首に、ユウナは両手を伸ばしてしがみついた。膝を浮かしかけていた彼の上半身は、いともたやすく細い腕に絡めとられてシーツの海に落下した。
 
「もう少しだけ、ここにいて。」
 柔らかな跳ね毛を華奢な肩口に抱きとめたまま、駄々をこねる童女のように彼女は繰り返した。広い背に回した腕に、力を込める。
 二人だけの時にしか見せない、ユウナの素顔。甘えた声音と仕草の奥には、彼以外には誰一人として知らない激しさが潜んでいる。
 
「前科者の言うことは信用できない?」
 一瞬だけ身を固くした彼女は、もどかしげにかぶりを振った。小さな肩を愛しげに抱き寄せて、ティーダは続けた。
「今でも後悔はしてないんだ。むしろ、誇りに思ってる。」

光舞う空に描かれた別れは、始まりのための休符。
それはきっと、再び出会うための遠い約束だったから。 
  
「一緒にいられなかった時間を埋めることはできないけれど、大切なのはこれからだろ?」
 額を合わせるようにして、ティーダは愛しい人の顔を覗き込んだ。涼しげな双眸は温かな光を孕んで、透明な水のようにユウナの心を潤していく。
 百の言葉より、雄弁に語るものがある。嘘偽りのない、真っ直ぐな誓いをその胸に届ける。
 触れ合う肌の温かさが、伝わる鼓動の確かさが、何より確かな証。
 夜目にもほんのりと紅に染まった彼女の眼元に、笑みが戻る。
「うん。キミを信じてる。」
 

 後悔なんてしていない。その言葉を疑うことなど、まして責めるつもりなど、ある訳がない。ただあまりに自分が満たされていて、欠け行く月に嫉妬されそうで―――
 だからキミを確かめたい。ずっとずっと感じていたい。

 ユウナの内に湧き起こる不可思議な熱情を見透かしたかのように、ティーダの微笑が艶めいた色を帯びた。視線を絡ませたまま、柔らかに波打つ髪に、ふわりと白いうなじに、指先の温度を刻んでいく。
 
「もう少しここにいる口実をくれる?」
掠れた声での囁きは、甘い疼きを伴ってユウナの思考を白く染める。
「……え?」
 続くはずだった咎め立ての言葉は、彼の唇で塞がれ、消えた。






 月もうらやむ、そんな二人のお話。

 



-FIN-





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「月」というモチーフは、ティユウファンなら外せないテーマと言うか(笑)
色々な作家様が書いていらっしゃいますが
どうしても、自分も一度は書いてみたいと思っていました。(無謀)

どこかで読んだような話だなと思われたら、イタいなー。(汗)

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